SSブログ

斉藤環『キャラクター精神分析』

斉藤環『キャラクター精神分析』を読みました。自分の修士論文に関係が深いので興味深く読むことが出来ました。
ダウンロード (2).jpg
↓本書の構成です。
はじめに
第1章 「キャラ」化する若者たち
第2章 「キャラ」の精神医学
第3章 「キャラ」の記号論
第4章 漫画におけるキャラクター論
第5章 小説におけるキャラクター論
第6章 アートとキャラの関係性について
第7章 キャラの生成力
第8章 キャラ“萌え”の審級
第9章 虚構としてのキャラクター論
第10章 キャラクターとは何か
参考文献
あとがき
文庫版のためのあとがき
解説 「キャラクター」という能力 岡崎乾二郎


本書は「キャラ」と「キャラクター」を区別した上で、人間関係におけるキャラを用いたコミュニケーションと、漫画を始めとする作品内の「キャラ」とを論じています。この記事では前者の、人間関係に関するキャラについての章を要約していこうと思っています。総合的な理解という観点からは片手落ちのようになってしまうかもしれませんが、スッキリとして本書の主張が頭に入りやすくなるところもあると考えたためです。
それでは以下に、各章の要約をしていきたいと思います。

スポンサードリンク


はじめに
キャラは本来「人格」「性格」というほどの意味だった→漫画やゲームの登場人物を指す言葉になる→芸能人やお笑い芸人に応用される→現実の人間関係の中でも日常的に使われるようになっている。
「キャラ」は日常語として浸透しきったため、意味や用途が拡散してしまい、定義したり本質をつかんがりすることが困難になりがちである。そうした状況を踏まえ、本書は改めてキャラの本質について、事例にもとづき原理的に理解し直そうとする試みである。

第1章 「キャラ」化する若者たち
具体例「いじられキャラ」「おたくキャラ」「天然キャラ」など

教室空間におけるキャラ…2010年11月20日付の朝日新聞には、「キャラ」を演じ疲れて臨床心理士のもとに相談に訪れる中学生の記事が掲載されている。これ以外にも近年様々な調査が「キャラ」に対してなされており、「教室には生徒の人数分だけキャラが存在し、その中でキャラがかぶらないように調整されている」といった「キャラの生態系」様相が指摘されている。

キャラの生成過程は、クラスがスクールカーストに応じた5、6人程度のグループに分かれる→グループ内で役割としてキャラが自然発生的に割振られる。という経過をたどる。

キャラは本人の自認する性格傾向と微妙に異なることもあるが、一度決められると変更はほとんど不可能。スクールカーストは生徒のコミュニケーション能力【のみ】によって決まる。現在の教室空間はコミュニケーション偏重である。

コミュニケーション能力を軸にすると、一方の極に「自分探し系」もう一方の極に「ひきこもり系」が位置づけられるが、「自分探し系」はキャラによるコミュニケーションが得意である(自己イメージは不安定)「引きこもり系」は自己イメージが比較的安定している一方で、キャラの運用能力では惨敗である。

コミュニケーション能力に基づく、「キャラ」の浸透に寄与したものとしてケータイを始めとしたネットカルチャーがある。90年代後半以降、ネットカルチャーの存在によって社会全体がコミュニケーション偏重主義に向かってきた。現代のコミュニケーション・スキルとの共通項は以下の通りである。「メッセージ内容の軽さ。リプライの即時性・頻繁かつ円滑なやりとり・笑いの要素・顔文字などのメタメッセージの多用・キャラの明確さ」

キャラのデメリットは、キャラ文化がいじめにつながりやすい構造を持つこと(教室・仲良しグループという中間集団からの同調圧力がいじめにつながることがある)
キャラのメリットは、コミュニケーションの円滑化である。相手のキャラがわかればコミュニケーションのモードも自動的に定まる。
キャラは「演ずる」よりも「自認させられ」「演じさせられる」ものである。そのことによって、演じているにすぎないという意識が生まれるため、キャラの背後にあると想定される「本当の自分」が傷つかず、キャラの再帰的な相互確認という情報量の少ないコミュニケーションによって、親密なコミュニケーションをしたという感覚を得ることができる。

「キャラの再帰性」がもたらすものは、若者のメンタリティに深く影響し、それが端的にあらわれているのは、近年続発した連続通り魔殺人事件である。(2008年の秋葉原事件、八王子市事件、土浦市事件、岡山市事件)容疑者はコミュニケーション弱者であり、事件の性質として「匿名性=誰でもよかったという借り物の言葉でしか動機を語れない」があった。(これより以前の例えば酒鬼薔薇事件ではむしろ自己表現的な性質があった)
それはつまり、人間の固有性、世界の必然性(取り替えのきかなさ)を無根拠であるとして信仰することをやめた現代の若者は、「人間は取り替え可能で、確率論的な存在であり、世界は偶然性のもとにある」と考えることからきている。これによって人間の匿名性と世界の複数性が現れるのだが、実はこの「偶然性」も無根拠である。ただ現代では全ては偶然とする考えが優勢である。キャラクターは、この「記述しきれない固有性」をどこか有し、キャラに固有性は乏しく、記述可能である。

匿名化にさらされた個人の心に、固有性(かけがえのない世界におけるかけがえのない私)とは違った方法で一つのまとまりを与えてくれるのが「キャラ」である。それはコミュニケーションによって再帰的にキャラの記述を確認し続ける(複数の世界で同一性を確認し続ける私)という形をとる。後者の方法は成長や変化を犠牲にすることで成り立つ。

第2章 「キャラ」の精神医学
著者の考えでは「キャラ」に近い存在とは解離性同一性障害(DID=多重人格)である。著者の私見では「キャラに近い」どころではなく、「キャラそのもの」であるという。

DIDの交代人格とは素朴で深みのない、アニメキャラに例えたくなるような記述可能な人格単位である。

交代人格はしばしば下の名前だけで、姓(すなわち父の名)がなく、精神分析的には父の名の排除は固有かつ唯一の自己同一性を排除することである。これが完全に排除されれば精神病(統合失調症)になってしまうが、DIDではそこまでの解体に至らない。つまりDIDは「キャラクター化による固有名の障碍」。ただ一つの固有名が失われて、交換可能なキャラが前景化すること、と考えることができる。防衛機制としての解離が暴走した結果と位置づけられるのではないか。

交代人格とキャラを同じ性質を持ったものと考える時、それらと身体との関連も考察する必要がある。これらは、人格の複数性を認めることで「自我=身体」という状態を確保している(交代人格ごとに身体的特徴が変わる事例)。一つの身体を同時に複数の人格がコントロールをする事態は起こらず、あくまで表に現れる人格は一つである。これは考えてみれば奇妙なルールであるが、身体という空間を占める人格が一つという空間的イメージが共有されている。操作主義的に単純素朴な複数のキャラと身体を短絡させた結果、キャラは葛藤や成長することがないと考えられる。対極に固有の存在であろうとして苦悩・焦燥感に襲われるひきこもりを想定する。

第10章 キャラクターとは何か

日本に欧米型の精神病理であるPTSDや解離性同一性障害が少ないのは、キャラ化することによって病理化を免れているのではないか。しかし、キャラ化によって「対人恐怖」「ひきこもり」などの日本独特、キャラ文化特有の病理もまた発生しているのではないか。

キャラとは「対人関係のインターフェイス」である。同時にペルソナとは異なる。
「主体とペルソナとの関係は1対多」
「主体とキャラとの関係は多対多」
である。だから
「ペルソナ・欧米型の唯一と想定される主体が傷つけられる体験は深刻なものとなる」
「キャラ・日本型の場合、あらかじめ主体が複数化されているので傷つけられ体験の質が異なる」

「ペルソナは主体の所有物であるがゆえに取り換えがきくが」
「キャラはコミュニケーションの文脈に依存して発生するのでコントロールが効かない」
→このキャラじゃまずいと焦るほど、周囲から浮いてイケてないキャラにハマりこむ。この「キャラを媒介とした間主観性」がひきこもり問題の根源にある。

キャラに関する考察を重ねた著者が辿りついたキャラの究極の定義は 「キャラとは同一性を伝達伝達するもの」である。

同一性「A=A」は証明できず、哲学の対象にもなれない。また著者の考えでは人間にだけ当てはまるものである。

「人間」=「固有性をもつ」 「キャラ」=「同一性の伝達」の例を列挙する
・キャラは交代人格である
・キャラには「父の名」がない
・キャラは記述可能な存在である
・キャラが潜在的に複数形である
・キャラは葛藤しない
・キャラは成長・成熟しない
・キャラはそれぞれ一つの想像的身体を持つ
・キャラは固有名と匿名の中間的存在である

上記に列挙された性質の逆がキャラとは異なる「人格の深さ」であり、「人間の条件」とも考えられる。


キャラはキャラクターのエレメントであるがゆえに、いわゆる自我同一性(アイデンティティ)とは無縁である。それは成熟と統合の結果得られるものであるからである。
キャラは人間の下位概念と考えられる。(価値判断ではなく、臨床的に)

スポンサードリンク


「感想」
著者の「キャラ」に関する膨大な考察の中から、対人コミュニケーション場面でのキャラの記述に絞ってまとめようとしたのですが、サブカルチャー論とも関連が深かったためあまりうまくいかず、抜き書きのようになってしまったところが反省です。

そこで、以前まとめた平野啓一郎氏の「分人」概念との比較から僕なりに考えたことを記述しておきたいと思います。本書における「キャラ」も「分人」も「コミュニケーションごとに生成される、対人関係のインターフェイス」という部分は共通です。異なるのは、同一のインターフェイスに対する解釈の部分で「分人」では、そのインターフェイスひとつひとつを全て本当の自分だとして、「人格」として考えます。一方で本書の「キャラ」ではインターフェイス一つ一つは、分割した主体と結びついたものとして、「人格」よりも下位概念だと位置付けられています。両者の違いは「人間はそもそも分けられるか否か」という点で発生しており、平野氏が人間は元々分割可能な存在だと考えているのに対して、斎藤氏はキャラを統合したところの「人間」を想定しているところから、人間は統合されているのが本来の姿であるが、対人関係の力学によって分割してしまっているのがキャラという現象だと考えているようです。

この違いは現在行われている若い世代のコミュニケーションの質に対する解釈にも反映されており、平野氏が「それぞれに対してキャラや仮面で対応していただけというのは、さみしすぎる。分人として、反復的なそれぞれの場面で人格を生成していっているのだ」と肯定的な見方をする一方、斎藤氏は「互いのキャラを再帰的に確認しあうという(同一性の伝達というキャラの定義に即した)毛づくろい的コミュニケーション」という否定的(だと思われる)見方をしているように思えます。

両者に共通する問題意識は、人間が異なる対人関係で異なる自分になるという現象に悩みが深くなっているということでしょうか。分人として現状を肯定するにせよ、キャラとして分裂メカニズムを分析するにせよ、何かしらの言葉と理論によって自分の違和感を理解してコントロールしようという動機があるように思えます。
異なる対人関係で異なる自分になるということに対する悩みがいつからあったのか、そしてそれが深刻化するのはいつからなのかという視点で調べてみると面白そうだと思います。少なくともペルソナ概念が提出された頃にはそのような深刻化の傾向が始まっていたのでしょうか。深刻化が現代に特有のものだとすると、月並みですが、やはり社会が流動化の一途をたどっていることに関連が深そうだと感じます。
nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。