SSブログ
前の10件 | -

川上量生『ニコニコ哲学』

『ニコニコ哲学』を読みました。
ニコニコ哲学画像.jpg
修士論文の提出がようやく終わり久々の記事更新となりました。
ドワンゴ代表取締役会長の川上量生氏の著作です。前著『ルールを変える思考法』が面白かったので購入しました。

本書の構成は以下通りです↓
1:KADOKAWA・DOWANGOはこうつくる
2:ニコニコ動画のつくり方
3:ニコニコはこう動かす
4:バカにはバカと言い、計算ずくでバカをやる
5:論理をとことん考える
6:一億光年先を考える

スポンサードリンク



本質を突きつめて考えた結果「夢は『もっと寝たい』」である川上氏の思考の道筋が垣間見える本書であると思います。その中で僕が自分の置かれた状況とも照らし合わせて参考にしたいと考えたのは、競争に対する川上氏の考えかたです。

「才能は希少性ですね」
「オープンなマーケットで、みんながコンテンツをつくれるようになるほど、コンテンツの実質的な多様性は減るっていうのが僕の持論です。数が多いということは、ある解に向かって自動的に収束していくってことですからね」
という二つの発言に象徴されるように、厳しい競争が起こるとそれだけ成功のために多くの努力が必要になりかつ成功の可能性が下がるため、成功は難しくなるという、頭では分かっているけど、僕のような一般人は忘れがちな原則を、川上氏はきちんと意識しています。始めから競争の少ないフィールドで勝負しようとしているわけですね。川上氏は競争の激しいフィールドの例としてスポーツの場を挙げています。

「才能のレベルがとても高くても、競争相手がたくさんいるジャンルで認められるのは大変ですよね。例えばプロ野球選手は裾野が広いから大変ですよ」
「こういう世界では、天才であればあるほど大してすごくないんですよ」
「100メートル走で考えると分かりやすいと思うんですけど、100メートル走って世界的なレベルの選手になればなるほど、縮まるタイムっていうのは減っていきますよね。最終的には、コンマ1秒の差で天才かどうかが決まる。人間の能力っていうのは、ある程度まではみんな同じところまで伸ばせるんです。そこから薄皮1枚分だけ突きぬけた人が、天才とよばれる」
人間の能力がある程度正規分布しているため、皆が参入してくる場所で成功するのは非常に難しいし、成功のための道筋も固定化されやすくなるということです。だから小説家になろうというサイトの投稿小説でも上位は皆同じようなストーリーになっていたり、ニコニコ動画でも初期に参入した人が有利で今から成功するのはハードルが高くなっていると言います。ちなみにブログにしてもそうで、文章能力の高い人が今からそれなりに努力しても有名ブロガーになるのは難しい状況にあるようですね。
川上氏は京大工学部卒で受験の勝ち組なので、単純な地頭も良いことは間違いないのでしょうが、こうして、自分のしていることをメタレベルの視点で捉えて、割の合わないガチンコ勝負を避けつつ、新しいフィールドで成功をおさめるという能力が氏の頭の良さの一つの特徴なのかもしれません。
川上氏は人間の能力がある程度同じというこの視点で起業についても語っています。川上氏自身はニコニコ動画を始める過程でいくつも想定されたリスクを細かく検討していたと言います。

「それぞれについて、しくじる可能性は何パーセントで、ダメだったときにリカバリーできる方法はなにがあって、リカバリーできる可能性はどのくらいなのか。こうやって考えていったら、ある程度リスクが正確に見積もれるんですよ」
それに対して多くの人は

「『賭ける!』という強い思いで思考を停止しちゃうんですよね(笑)。大きな間違いです。そういうときこそ考えないと。必要なのは、勇気でもなんでもなくて計算です」

川上氏は成功には勇気よりも計算という経済合理性が重要だと考えているのである。計算をすれば自分のやろうとしている起業がどのようなリスクの期待値を持っているかが分かる。ほとんどの人はそれを把握せずに、ギャンブルとして起業を捉えているが、始まる前から実は終わっている起業が多いという。

「例えば年間約100万社が創業して、約50社が上場するとします。そうしたらそれを聞いた人は、確率は2万分の1だ、と思う。俺はその0、005パーセントに賭けるんだって発想をするんだけど、実際の確率はそれよりさらに低いんですよ。その成功する50社って、そもそも独自技術を持っていたり、バックアップがあったり、人材がそろっていたりするんですよ」

ミもフタもないような印象ですが、人間の能力はある程度同じで、そこから頭ひとつ抜け出そうと思えば、経済合理性に基づいて他人と違うフィールドに行かなければならないという、川上氏の基本的な前提に基づけば自ずと出てくる解だと思います。

スポンサードリンク



修論を出し終わって、ようやく就活生になった僕ですが、僕の就活している業界は、1月頃から次年度の求人が始まるという短期決戦型構造の上に、現職の心理士の求人が多く、半人前以下の修士卒の求人が非常に少ないです。そのため、例年、修士卒見こみ可の公募に人が殺到するということになると聞いてはいたのですが、この前実際に行ってみたら、やはり数人の募集に20人程度が集まっていて「これは厳しいな」という様子でした。公募のサイトに掲載された求人はガチンコ勝負の場になってしまっていて僕の真っ白な履歴書の戦闘力じゃ到底勝てるゲームじゃないですね笑。アルバイト先のコネに頼るとか、公募サイトではなくその組織自前のサイトに乗っている情報を探すとか、独自の情報を使う工夫をしないといけないですね。
夢や希望が湧いてくる本ではないですが、次にどうしようか、と考える時にヒントになると思いました。

引用・参考文献 川上量生,2014,日経BP,『ニコニコ哲学』

nice!(6)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

斉藤環『キャラクター精神分析』

斉藤環『キャラクター精神分析』を読みました。自分の修士論文に関係が深いので興味深く読むことが出来ました。
ダウンロード (2).jpg
↓本書の構成です。
はじめに
第1章 「キャラ」化する若者たち
第2章 「キャラ」の精神医学
第3章 「キャラ」の記号論
第4章 漫画におけるキャラクター論
第5章 小説におけるキャラクター論
第6章 アートとキャラの関係性について
第7章 キャラの生成力
第8章 キャラ“萌え”の審級
第9章 虚構としてのキャラクター論
第10章 キャラクターとは何か
参考文献
あとがき
文庫版のためのあとがき
解説 「キャラクター」という能力 岡崎乾二郎


本書は「キャラ」と「キャラクター」を区別した上で、人間関係におけるキャラを用いたコミュニケーションと、漫画を始めとする作品内の「キャラ」とを論じています。この記事では前者の、人間関係に関するキャラについての章を要約していこうと思っています。総合的な理解という観点からは片手落ちのようになってしまうかもしれませんが、スッキリとして本書の主張が頭に入りやすくなるところもあると考えたためです。
それでは以下に、各章の要約をしていきたいと思います。

スポンサードリンク


はじめに
キャラは本来「人格」「性格」というほどの意味だった→漫画やゲームの登場人物を指す言葉になる→芸能人やお笑い芸人に応用される→現実の人間関係の中でも日常的に使われるようになっている。
「キャラ」は日常語として浸透しきったため、意味や用途が拡散してしまい、定義したり本質をつかんがりすることが困難になりがちである。そうした状況を踏まえ、本書は改めてキャラの本質について、事例にもとづき原理的に理解し直そうとする試みである。

第1章 「キャラ」化する若者たち
具体例「いじられキャラ」「おたくキャラ」「天然キャラ」など

教室空間におけるキャラ…2010年11月20日付の朝日新聞には、「キャラ」を演じ疲れて臨床心理士のもとに相談に訪れる中学生の記事が掲載されている。これ以外にも近年様々な調査が「キャラ」に対してなされており、「教室には生徒の人数分だけキャラが存在し、その中でキャラがかぶらないように調整されている」といった「キャラの生態系」様相が指摘されている。

キャラの生成過程は、クラスがスクールカーストに応じた5、6人程度のグループに分かれる→グループ内で役割としてキャラが自然発生的に割振られる。という経過をたどる。

キャラは本人の自認する性格傾向と微妙に異なることもあるが、一度決められると変更はほとんど不可能。スクールカーストは生徒のコミュニケーション能力【のみ】によって決まる。現在の教室空間はコミュニケーション偏重である。

コミュニケーション能力を軸にすると、一方の極に「自分探し系」もう一方の極に「ひきこもり系」が位置づけられるが、「自分探し系」はキャラによるコミュニケーションが得意である(自己イメージは不安定)「引きこもり系」は自己イメージが比較的安定している一方で、キャラの運用能力では惨敗である。

コミュニケーション能力に基づく、「キャラ」の浸透に寄与したものとしてケータイを始めとしたネットカルチャーがある。90年代後半以降、ネットカルチャーの存在によって社会全体がコミュニケーション偏重主義に向かってきた。現代のコミュニケーション・スキルとの共通項は以下の通りである。「メッセージ内容の軽さ。リプライの即時性・頻繁かつ円滑なやりとり・笑いの要素・顔文字などのメタメッセージの多用・キャラの明確さ」

キャラのデメリットは、キャラ文化がいじめにつながりやすい構造を持つこと(教室・仲良しグループという中間集団からの同調圧力がいじめにつながることがある)
キャラのメリットは、コミュニケーションの円滑化である。相手のキャラがわかればコミュニケーションのモードも自動的に定まる。
キャラは「演ずる」よりも「自認させられ」「演じさせられる」ものである。そのことによって、演じているにすぎないという意識が生まれるため、キャラの背後にあると想定される「本当の自分」が傷つかず、キャラの再帰的な相互確認という情報量の少ないコミュニケーションによって、親密なコミュニケーションをしたという感覚を得ることができる。

「キャラの再帰性」がもたらすものは、若者のメンタリティに深く影響し、それが端的にあらわれているのは、近年続発した連続通り魔殺人事件である。(2008年の秋葉原事件、八王子市事件、土浦市事件、岡山市事件)容疑者はコミュニケーション弱者であり、事件の性質として「匿名性=誰でもよかったという借り物の言葉でしか動機を語れない」があった。(これより以前の例えば酒鬼薔薇事件ではむしろ自己表現的な性質があった)
それはつまり、人間の固有性、世界の必然性(取り替えのきかなさ)を無根拠であるとして信仰することをやめた現代の若者は、「人間は取り替え可能で、確率論的な存在であり、世界は偶然性のもとにある」と考えることからきている。これによって人間の匿名性と世界の複数性が現れるのだが、実はこの「偶然性」も無根拠である。ただ現代では全ては偶然とする考えが優勢である。キャラクターは、この「記述しきれない固有性」をどこか有し、キャラに固有性は乏しく、記述可能である。

匿名化にさらされた個人の心に、固有性(かけがえのない世界におけるかけがえのない私)とは違った方法で一つのまとまりを与えてくれるのが「キャラ」である。それはコミュニケーションによって再帰的にキャラの記述を確認し続ける(複数の世界で同一性を確認し続ける私)という形をとる。後者の方法は成長や変化を犠牲にすることで成り立つ。

第2章 「キャラ」の精神医学
著者の考えでは「キャラ」に近い存在とは解離性同一性障害(DID=多重人格)である。著者の私見では「キャラに近い」どころではなく、「キャラそのもの」であるという。

DIDの交代人格とは素朴で深みのない、アニメキャラに例えたくなるような記述可能な人格単位である。

交代人格はしばしば下の名前だけで、姓(すなわち父の名)がなく、精神分析的には父の名の排除は固有かつ唯一の自己同一性を排除することである。これが完全に排除されれば精神病(統合失調症)になってしまうが、DIDではそこまでの解体に至らない。つまりDIDは「キャラクター化による固有名の障碍」。ただ一つの固有名が失われて、交換可能なキャラが前景化すること、と考えることができる。防衛機制としての解離が暴走した結果と位置づけられるのではないか。

交代人格とキャラを同じ性質を持ったものと考える時、それらと身体との関連も考察する必要がある。これらは、人格の複数性を認めることで「自我=身体」という状態を確保している(交代人格ごとに身体的特徴が変わる事例)。一つの身体を同時に複数の人格がコントロールをする事態は起こらず、あくまで表に現れる人格は一つである。これは考えてみれば奇妙なルールであるが、身体という空間を占める人格が一つという空間的イメージが共有されている。操作主義的に単純素朴な複数のキャラと身体を短絡させた結果、キャラは葛藤や成長することがないと考えられる。対極に固有の存在であろうとして苦悩・焦燥感に襲われるひきこもりを想定する。

第10章 キャラクターとは何か

日本に欧米型の精神病理であるPTSDや解離性同一性障害が少ないのは、キャラ化することによって病理化を免れているのではないか。しかし、キャラ化によって「対人恐怖」「ひきこもり」などの日本独特、キャラ文化特有の病理もまた発生しているのではないか。

キャラとは「対人関係のインターフェイス」である。同時にペルソナとは異なる。
「主体とペルソナとの関係は1対多」
「主体とキャラとの関係は多対多」
である。だから
「ペルソナ・欧米型の唯一と想定される主体が傷つけられる体験は深刻なものとなる」
「キャラ・日本型の場合、あらかじめ主体が複数化されているので傷つけられ体験の質が異なる」

「ペルソナは主体の所有物であるがゆえに取り換えがきくが」
「キャラはコミュニケーションの文脈に依存して発生するのでコントロールが効かない」
→このキャラじゃまずいと焦るほど、周囲から浮いてイケてないキャラにハマりこむ。この「キャラを媒介とした間主観性」がひきこもり問題の根源にある。

キャラに関する考察を重ねた著者が辿りついたキャラの究極の定義は 「キャラとは同一性を伝達伝達するもの」である。

同一性「A=A」は証明できず、哲学の対象にもなれない。また著者の考えでは人間にだけ当てはまるものである。

「人間」=「固有性をもつ」 「キャラ」=「同一性の伝達」の例を列挙する
・キャラは交代人格である
・キャラには「父の名」がない
・キャラは記述可能な存在である
・キャラが潜在的に複数形である
・キャラは葛藤しない
・キャラは成長・成熟しない
・キャラはそれぞれ一つの想像的身体を持つ
・キャラは固有名と匿名の中間的存在である

上記に列挙された性質の逆がキャラとは異なる「人格の深さ」であり、「人間の条件」とも考えられる。


キャラはキャラクターのエレメントであるがゆえに、いわゆる自我同一性(アイデンティティ)とは無縁である。それは成熟と統合の結果得られるものであるからである。
キャラは人間の下位概念と考えられる。(価値判断ではなく、臨床的に)

スポンサードリンク


「感想」
著者の「キャラ」に関する膨大な考察の中から、対人コミュニケーション場面でのキャラの記述に絞ってまとめようとしたのですが、サブカルチャー論とも関連が深かったためあまりうまくいかず、抜き書きのようになってしまったところが反省です。

そこで、以前まとめた平野啓一郎氏の「分人」概念との比較から僕なりに考えたことを記述しておきたいと思います。本書における「キャラ」も「分人」も「コミュニケーションごとに生成される、対人関係のインターフェイス」という部分は共通です。異なるのは、同一のインターフェイスに対する解釈の部分で「分人」では、そのインターフェイスひとつひとつを全て本当の自分だとして、「人格」として考えます。一方で本書の「キャラ」ではインターフェイス一つ一つは、分割した主体と結びついたものとして、「人格」よりも下位概念だと位置付けられています。両者の違いは「人間はそもそも分けられるか否か」という点で発生しており、平野氏が人間は元々分割可能な存在だと考えているのに対して、斎藤氏はキャラを統合したところの「人間」を想定しているところから、人間は統合されているのが本来の姿であるが、対人関係の力学によって分割してしまっているのがキャラという現象だと考えているようです。

この違いは現在行われている若い世代のコミュニケーションの質に対する解釈にも反映されており、平野氏が「それぞれに対してキャラや仮面で対応していただけというのは、さみしすぎる。分人として、反復的なそれぞれの場面で人格を生成していっているのだ」と肯定的な見方をする一方、斎藤氏は「互いのキャラを再帰的に確認しあうという(同一性の伝達というキャラの定義に即した)毛づくろい的コミュニケーション」という否定的(だと思われる)見方をしているように思えます。

両者に共通する問題意識は、人間が異なる対人関係で異なる自分になるという現象に悩みが深くなっているということでしょうか。分人として現状を肯定するにせよ、キャラとして分裂メカニズムを分析するにせよ、何かしらの言葉と理論によって自分の違和感を理解してコントロールしようという動機があるように思えます。
異なる対人関係で異なる自分になるということに対する悩みがいつからあったのか、そしてそれが深刻化するのはいつからなのかという視点で調べてみると面白そうだと思います。少なくともペルソナ概念が提出された頃にはそのような深刻化の傾向が始まっていたのでしょうか。深刻化が現代に特有のものだとすると、月並みですが、やはり社会が流動化の一途をたどっていることに関連が深そうだと感じます。
nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

カフカ『絶望名人カフカの人生論』 頭木弘樹編訳

『絶望名人カフカの人生論』を読みました。新潮文庫におけるフランツ・カフカのラインナップは、ここのところ『城』と『変身』だけだったので、新刊が加わるのは嬉しいですね。飛鳥新社の2011年発売の単行本だったものが、この10月に文庫化されました。
ダウンロード (1).jpg
元々カフカの小説は未完の長編が3編(『審判(訴訟)』『城』『アメリカ(失踪者)』)と、完結・未完様々の短編が岩波文庫で2冊分ほどしか残されていないので、世界の文豪の中では作品を読破しやすい作家だと思います。(無意味に言わせていただくと、僕のお気に入りは『アメリカ』と『審判』です。)
そんなわけで、本書はフランツ・カフカの小説を収めた本ではなく、カフカの残した手紙、ノートへのメモ書き、日記などから印象的な文章を集めた本となっています。
この本の面白いところは、日記や手紙の丸ごとの翻訳ではなく、著者による選別というか、編集のようなものが入っていることでしょう。カフカの文章を改変しているわけでは全く【ない】のですが(著者自身も認めるように超訳的なことはしているようですが)、それでも著者の人生が色濃く反映した本になっています。ラジオの編集作業のようなものとでもいいますか、著者の選び出した文章によってこれまでとはまた違ったカフカ像が照らし出されています。
つまりどういうことかといいますと、この本に収められたカフカの文章はすべて「ネガティブ」ワードなのです。ネガティブな言葉と言うと普通はそれに影響されて自分まで落ち込んだり不快になってしまうとして、避けられがちですが、そこはやはりカフカ。表現がどこか浮揚するような印象で、読む人間は思わず笑わされたり、心が軽くなったりするのです。

スポンサードリンク



↓そういうわけで、本書の構成はこんなことになっています
第1章 将来に絶望した!
第2章 世の中に絶望した!
第3章 自分の身体に絶望した!
第4章 自分の心の弱さに絶望した!
第5章 親に絶望した!
第6章 学校に絶望した!
第7章 仕事に絶望した!
第8章 夢に絶望した!
第9章 結婚に絶望した!
第10章 子供を作ることに絶望した!
第11章 人づきあいに絶望した!
第12章 真実に絶望した!
第13章 食べることに絶望した!
第14章 不眠に絶望した!
第15章 病気に絶望……していない!
あとがき 誰よりも弱い人
文庫版編訳者あとがき
解説 山田太一


本書は、各見開きが1セットになっていて、右側のページにカフカのネガティブな文章・アフォリズムが数行書かれ、それに対する、著者の解説が左側のページにあります。解説も比較的フォントが大きく、量も多くて10数行に収まっています。そしてそれが86セットあるという構成です。
つまり、とても字が少ない本です。解説まで含めて267ページですが、特別読むスピードがない僕でも1時間かからずに読めてしまうくらいでした。
そういうわけで本書を要約しようとすると、下手をするとカフカの翻訳部分を全部写すようなことになってしまいかねず、それでは無意味です。しかし、本書を読んだ時の何とも言えない感覚を誰かに伝えたい……ということで、印象深かった文章を1つだけ引用させていただいて、本書の紹介にしたいと思います。


将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。 将来にむかってつまずくこと、これはできます。 いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。               ―――フェリーツェへの手紙


これを大学の書籍販売で立ち読みして笑ってしまったことが本書購入の決め手でした。他にも、生涯にわたって本業は公務員、夜だけ小説を書いていたカフカが、公務員の方の仕事の嫌さを書いた文章、コミュニケーションが苦手だったカフカが、馴れない人達と一緒に居なければならなかった時に感じた息苦しさ、違和感を書いた文章など、多くの人が感じたことがあるであろう息苦しい場面に対して、カフカの文章が絶望を見つめつつ軽妙さをもって記述してくれているページが沢山あり、やはり僕もなんだか救われた気分になったのでした。
著者の頭木氏は、中学の読書感想文としてカフカの『変身』選んだ(理由は薄いから)ことをきっかけにカフカと出会い、その後大学3年に大病をして長期の入院を余議なくされたことを機にカフカの手紙や日記も読むようになったとのことでした。さらっと書かれていますが、この本が多くの読者から「心が軽くなった」と受け入れられたのは作者が置かれた突然の長期入院という境遇で「どうカフカのテクストを読んだのか」が反映されているからでしょう。厖大な量のカフカの日記や手紙から何に着目して何を切り取るかというのは、その人のものの見方が必ず投影されると思います。エヴァンゲリオンの庵野秀明監督が、厖大な情報を詰め込まれたエヴァという作品を観た時の感想は、その人自身を表していると話していましたが、これと近い感覚です。(庵野監督はロールシャッハ・テストという心理学で使われる投影法の一つを引き合いに出していました)結局ある人が何かをする時に、全く自分自身から切り離された純粋な創作をする可能性は極めて低く、その人自身の心理や体験が影響することは必然ということでしょうか。
すなわちこの本はカフカの本であることは確かですが、それでいて絶望名人カフカを材料に、また別の絶望した人が自分の絶望を切り出した作品とも言えそうです。
先にも述べましたが、文庫になって500円ちょっとですし、1時間しないくらいで読めてしまうので、是非手にとっていただきたいと思います。

スポンサードリンク



引用・参考文献 『絶望名人カフカの人生論』 カフカ 頭木弘樹 編訳 新潮社

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』

平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』 を読みました。
ごく短く要旨をお伝えすると、人間は分けられない「個人」だと考えるのは幻想で、人間は本当は分割可能である。分割された人格一つ一つを「分人」と呼ぶ。分人は全て本当の自分である。といったところでしょうか。
ダウンロード.jpg
平野啓一郎氏の紹介です
1975年、愛知県生まれ。小説家。京都大学法学部卒。1999年、在学中に文芸誌『新潮』に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。以後、2002年発表の大長編『葬送』をはじめ、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。〔後略〕(本紙より引用)

↓本紙の構成です。
まえがき
第1章 「本当の自分」はどこにあるか
第2章 分人とは何か
第3章 自分と他者を見つめ直す
第4章 愛すること・死ぬこと
第5章 分断を超えて

以下に各章の内容を要約していきます。

スポンサードリンク



第1章 「本当の自分」はどこにあるか
著者は中学、高校と友人に恵まれて過ごしたが、教室に対して違和感、孤独感、耐え難さを感じていた。そんな折、小説にのめり込み、文学を愛し、美に憧れている自分こそが本当で、学校での自分は周囲に合わせて仮面をかぶっているだけだと思うようになる。
この、キャラや仮面という言葉に象徴される、「本当の自分」と「ウソの自分」を対比させる人間理解のモデルは分かりやすいが誤りだと著者は考えている。

著者はフランス留学中には、語学学校のクラスメートであるスイス人達に接する時と、学校から帰って日本人の友人達と接する時では、明るさなどの点で全く対照的な状態であった(前者とはうまく馴染めず陰気な状態で日本人とは陽気に話していた)が、これは意識的にキャラを演じていたのではなく、周囲との関係から自然とそうなったのだと振り返る。また、高校時代の友人と大学時代の友人両方と同時に会った時の例などから、私たちはそもそもそんなに意識的にキャラを演じ分けるということをしないのではないか、と考察する。

すなわち著者の「個人」に対比される「分人」の考え方では、人間は対人関係ごとに色んな自分(分人)を持っていて、それらはキャラや仮面ではなく、全て「本当の自分」だということなのである。これはネットの中では別人だったり、趣味の話しは、それが通じる共通の趣味を持った人にだけする場合も、それぞれの場面でのその人を「分人」と捉えてその人の分人のひとつだと考えていくということである。

「本当の自分」は幻想であり、「いつでもどこでも変わらない自分」などを実践すれば面倒くさい人間だとされコミュニケーションは不可能。人間は「(分割不可能な)個人individual」
ではなく、そこから否定の接頭辞を取った「(分割可能な)dividual」である。

教育で「個性」の尊重が目標として掲げられたが、個性の尊重の意味しているものはつまり、自分の特徴にマッチした職業に就くことだった。しかし、職業というものは社会の必要に応じて分化したものであるから、人間の個性の数だけあるわけではない。それゆえ、団塊ジュニア以降の世代は、若い頃にアイデンティティクライシスを経験することになった。その流れの中で現れた特徴的な現象が「ひきこもり」と「自分探しの旅」である。この両者は一見正反対のものに思えるが、どちらも「ただ一つの本当の自分」幻想に突き動かされているという点で性質が同じである。

著者はアイデンティティクライシスを乗り越える試みの中で、小説家になり、さらにこの問題について考え、小説の中で表現していくこととなる。様々な小説を書いていくにつれて考えが進み、最新の段階では、「本当の私」という考えを完全に捨てるに至った。

この章のまとめ
一人の人間は「分けられない individual」存在ではなく、複数に「分けられる dividual」存在である。だからこそ、たった一つの「本当の自分」、首尾一貫した、「ブレない」本来の自己などというものは存在しない。

第2章 分人とは何か
「個人 individual」という概念は、西洋に独特のもので、一神教であるキリスト教と論理学に由来を持つ。この概念を輸入した後の日本人は、概念の理解に苦しんだ。現代でも実際には複数の「分人」が生じているにも関わらず、一人一票などの「個人」単位で扱われる場面が多く、また「本当の自分」幻想もあるため、私たちは現実の在り方と想定とのギャップに苦しんでいる。

この苦しさを解決するためには「分人」全てを本当の自分と考える。分人は分数のイメージである。分母の数は対人関係の数によって異なるので人によって違う。そして重要な人間関係においては分子が大きくなるイメージ。それぞれの分人は反復的なコミュニケーションの中で形成されてくる。
この分人が中心のないネットーワークを形成している。これを生きていく上での足場と考えるのである。

分人の形成は以下のようなステップを辿る。

ステップ1 社会的な分人 
当たり障りのない話をする、「不特定多数の人とコミュニケーション可能な、汎用性の高い分人」 地域差がある。

ステップ2 グループ向けの分人
学校や会社、サークルといった特定のグループ(カテゴリー)に向けた分人

ステップ3 特定の相手に向けた分人
全ての関係がこの段階まで至るわけではない。ごく短時間でここまで至る場合もあれば、長く知り合いでいてもここまで至らない場合もある。

このステップを進めるには人によってペースの違いがあるので、どちらかが一方的に早いスピードで段階を進めようとすると、コミュニケーションに失敗する。親密になるということは、相互に配慮しつつ、無理なく分人をカスタマイズしていくことである。

個性というのは、分人の構成比率と考えることができる。例えば中学時代にヤンキーになる場合を考えると、ヤンキー仲間向けの分人を生きるうちに教室空間や教師に向かい合う時もその分人を生きることとなり、コミュニケーションがうまくいかず、それだけ「ヤンキー仲間と過ごす時間が増え、分人が強化されるというサイクルに入ってしまう。
いじめられている子は、放課後に別の人間関係や趣味の活動を持って、別の分人を持てた場合、その分人の重要度を自分の中で高めれば、相対的にいじめられている自分の分人の重要度を下げることができる。この際、いじめられている自分は本当の自分でなくて、放課後の自分が本当の自分だと考えるのではなく、いじめられている自分も含めて本当の自分であるが、比率として、放課後の自分を足がかりにする、価値の序列を付けるという感覚を持つのがよい。

第3章 自分と他者を見つめ直す

分人は反復的なコミュニケーションによる相互関係によって生じるものであるから、自分の分人の性質の責任は他者にもあり、逆もまた真である。自分はAさんが好きでBさんが嫌いである、さらにAさんとBさんの仲が良い場合、自分としては二人の仲がいいのは面白くないだろうが、BさんのAさんに対する分人は、自分には口出しできないのであって、BさんはAさんにとっては良い人なのかぐらいに考えておくしかない。コミュニケーションにおいて、自分が影響を与えられるのは、自分に対する相手の分人だけである。個人としての相手全体に影響を与えることはできない。

分人のバランスが大切であって、ある一つの分人が不調になったとしても、関係を断つなどしてその分人の相対的な重要度を落とし、他の分人をあ足場にして「あっちがだめならこっち」という考えでいるのが良い。間違って「自分を全部消してしまいたい」などと考えると取り返しがつかない。

このような文脈で考えると、「自分探しの旅」というのは「新しい分人を作る旅」とも考えられるのであって、案外分人化に対する鋭い直感が働いているかもしれない。環境を変えるというのは、単純だが、特効薬的な効き目を発揮することがある。

人間は複数の分人を生きているからこそ精神の安定を保てる。いつも同じ自分でいなければならないのは非常なストレスであり、だからこそ閉鎖空間はストレスなのである。ひきこもりは嫌な分人を消滅させることができるが、(コミュニケーション全体を遮断するため)新たな分人も発生せず、過去の分人を生きるしかなく、変わることはますます難しくなる。

しかし、われわれには「顔」が一つしかないため、顔を用いればやはり個人は特定される。これは分人化をおさえる抑止力となる(防犯カメラの例など)。

親との関係は分人化過程においても重要であり、子どもは親との分人を最初に持ち、初期はそれをベースに他の人との間の分人を増やしていくこととなる。親と教師とに見せる様子が全く違っていたとしたら、それは分人化の過程を正常に進んでいることなのである。

自分自身のことは自分がよく知っているので、自分のことを好きになるのは実は難しい、しかし「誰々の前に居る時の自分(分人)は好き」となら考えられるかもしれず、これは自分を肯定するための足がかりになる。他者を経由した自己愛と揶揄されそうであるが、自己を肯定するために他者とのコミュニケーションを必要とするという逆説的な点において単なる自己愛とは区別されるものである。

第4章 愛すること・死ぬこと
分人という概念を導入して恋愛を考えると、従来の「1対1の個人同士が互いに恋をし、愛する」というものではなく、愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態と考えられる。これは前章で触れた他者を経由した自己肯定の状態である。人間が誰かと一緒にいたい、他の誰かとは一緒にいたくないと考えるのは、その人のことが好きか嫌いかというよりも、その人と一緒に居る時の自分の分人が好きか嫌いかという、ことが大きい。
分人という概念が示唆するところでは、誰かと愛し合っている、恋している分人を複数抱え込むことは容易にあり得る。文学は個人であるはずの人間が恋愛する複数の分人を抱えてしまっている(いわゆる浮気や不倫)葛藤を書き続けている。嫉妬感情をどうするのか?人は人間全体同士として愛し合えないのか?という点について著者自身が小説で書いた時にはやや保守的な結論にいきついた。
嫉妬感情についても分人のバランス・比率という観点から整理できる「私と仕事どっちが大事なの?」とある人が問う時、これは比較対象がそろわない馬鹿げた質問なのではなく、自分向けの分人が不当に小さな重要度しか振り分けられていないことに対する糾弾なのである。パートナーには自分と似た分人の比率傾向を持った人を選んだ方が理想かもしれない。さらにストーカーとなると、今度は自分に対する分人の比率を強制的に大きくしようと異常な行動に出る人間である。この強引な分人の強要はされた方はもちろん不快であるし、した当人もおそらくは満たされない、全くの逆効果なものである。

愛する人を失った時の悲しみは、自分の中に大きなウェイトを占めていた、その人との分人をもう生きられない・更新の可能性が失われるところから来る。

著者自身は「故人だったらこう言っただろう」という話し方には長らく反発を覚えていたが、尊敬する大江健三郎との対談中にそのことを話題にしてから部分的に考えが変わった。個人と深いコミュニケーションがあった人の内部には、個人とのコミュニケーションで生まれた分人がまだ残っているのであり、その意味で死者も他人の分人を通じて生き続けると言える。

第5章 分断を超えて
人間には環境的要因と遺伝的要因がある。遺伝要因も分人化の過程に影響する。個性は常に新しい環境・人間関係の中で変化していくものであるから、見知らぬ他者の分人化の傾向からその人の生来の性質を決定することはでない。とんでもない性格の人だと思っても、その人の成育歴などを丹念に調べると理解できるものであったりする。そうすると犯罪の責任の半分はやはり社会の側にあるということになる。

個人(individual)は、他者との関係においては分割可能dividualである。だからこそ、個人自体は分けられず他者とは明瞭に分けられる独立した主体として義務や責任を帰属させられる。
分人(dividual)は、他者との関係においては、分割不可能 dividualである。

個人は人間を個々に分断する単位であり、個人主義はその思想である。分人は、人間を個々に分断させない単位であり、分人主義はその思想である。だから隣人の成功は喜び失敗には優しく手を差し伸べるべきである、どちらも自分自身がその結果に影響しているからである。

一人の人間の中の分人同士が相互に混ざり合うほうがいいのか、きっぱり分かれているほうがいいのか、という問題にたいして、著者はどちらもあり得ると考えている。

社会のコミュニティ同士の分断を乗り越えるために、私たちは、矛盾するような複数のコミュニティごとに分人を形成して、それら複数のコミュニティに参加すること(複数のコミュニティの多重参加)が大切である。そうすることによって対話の可能性も開かれる。
なぜなら、私たちの内部の分人同士には意識のレベルでも無意識のレベルでも対話の可能性があるからである。

スポンサードリンク



「感想」
短く言うと、コミュニケーションごとに異なる私、これをどう理解すればいいのか?と考えていく本です。僕が心理学教室で書いている修士論文のテーマに近いので参考に読んでみました。
著者は、従来の心理学用語ペルソナ、若しくは日本社会で90年代から用いられるキャラという用語を使わず、敢えて新語である「分人」という概念を導入して、新語の定義と導入の必然性を丁寧に紹介した後、友達関係、恋愛関係や死者との関係、さらに社会状況にそれを応用して分人的な読みなおしを実践して見せます。新しい人間関係の捉え方であり非常に興味深く読ませていただきました。
あえて少しだけ疑問を述べさせていただくと、用語の整理とそれに付随していじめ問題に対しての考えが異なったのでいくつか記しておきたいと思います。

心理学的に言えばペルソナとキャラも主体の関与度の観点から異なる概念であり、一様に分人と対比することは難しいと思うので、僕なりに整理してみたいと思います。
まずペルソナはCGユングによって提唱された概念で、主体が場面ごとに異なる性質を全面に押し出し、他の部分は後退するような状態を指します。これと対比される分人の性質として最も大きいのは「主体」を想定しないところでしょう。どちらも自分の性質の一部を表出するという点で共通ですが、「分人」の方は一つ一つを人格として認めています。一方ペルソナの方はそれらを包括する「自己(自我とは異なる)」概念が想定されているため、統合を見越した概念だといえそうです。
次にキャラに関してですが、キャラは必ずしも自分の中の性質の一つという訳ではなく、自分とは違う性質のキャラであっても場の要請によって演じる場合があるという点でペルソナと異なります。また複数のキャラを統括する上位の主体があるというよりも、主体が分割するようにキャラごとに主体があるような不連続性があり、解離性同一性障害における交代人格との構造の類似性も指摘されています。キャラと「分人」を比較した場合、こちらは確かに違いがありそうだと思います。キャラは「人格」に比較すると一面的で単純であり、変化や発達をしない概念なので、コミュニケーションによって変わって行く「分人」とは大きくことなるといえます。ただし、キャラと分人概念は一部で重なってしまっているとも思われました。自分の「キャラ」に不満足でも演じなければならないエピソードが一般的であることと、自分に気に入らない「分人」を生きなければいけないという話はかなり類似しており、分人も、本人が気に入るかどうかという観点から見ると、キャラ概念と重なる部分があり、気に入らない「分人」も本当の自分であると考えるのは、場からの圧力を軽視している感じもします。いじめられている子がその分人の重要度を下げればいい、と言われても「明日も学校でいじめられる」と考えただけで、重大な抑うつ感情を体験するはずですし、その体験が外傷性記憶となれば、教室にいない時間も捉われることになります。本書の処方箋はいじめられ体験の実感とはかけ離れていると言わざるをえないでしょう。その意味で、分人的に考えるならば、いじめというのは、ストーカーに構造的に類似していて、(いやがらせメールを送るまでもなく)いじめられる側のいじめる側に対する分人の比率を強制的に異様に大きくさせるという点が特異的かつ暴力的なのであり、放課後が充実すればオッケー的な考え方で簡単にその肥大化した分人の比率を下げられるのか素朴に疑問で同意しかねるところです。ストーカーがやって来ない時間帯が充実すればオッケーとは言えないのと同じことではないでしょうか。
しかし、いじめられている人に対して有効な援助というものは非常に難しく、教室外の関係を充実させることが精神衛生上良いほぼ唯一の手段という考え方には僕も賛成です。いじめの根絶自体はほとんど不可能だと思われるので、いじめられ関係だけに閉塞することを避けられるようにする・可能性を提示するという方向は本人にとってかなり嬉しいことだと思います。次のステップとして「いじめられたのも本当の自分だけど重要じゃない」と思考を停めてしまうのではなく、どこかの時点で、「なぜそのような関係に陥ったのか、自分の性質と関係があったのか、それとも、圧力に負けてそのような自分を演じてしまう弱さ、という自分の性質があったのか、いじめられた時の気持ちを今はどう考えて、それをどう自分の人生に位置づけなおすのか」ということを時間をかけて、考えるという手間が必要だと思います。

引用・参考文献 『私とは何か 「個人」から「分人」へ』 平野啓一郎
2012 講談社
nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

東浩紀×小熊英二『真剣に話しましょう』②

真剣に話しましょう② 東浩紀×小熊英二
どう“社会を変える”のか―風営法問題、官邸前抗議、ヘイトスピーチ、総選挙……
今、「リベラル」は何をすべきか
真剣に話しましょう.jpg
真剣に話しましょうの要約2回目です。2回目ですが、本書の中で第2章の位置にある対談ではありません。というのも、僕にとって印象に残った対談を優先して紹介しているため、本での順番と僕のブログでの順番が入れ替わっているからです。

さて、今回のゲスト、東浩紀氏の紹介を軽くしたいと思います。
東浩紀(あずま・ひろき)
1971年生まれ。作家・思想家。ゲンロン代表取締役。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。
専門は現代思想、情報社会論、表象文化論。メディア出演多数。
著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、三島由紀夫賞)、『一般意思2,0』(講談社)。編著に『福島第一原発観光地化計画』(ゲンロン)などがある。(すべて本書から引用)

というわけで対談の要旨をざっくり要約していきたいと思います。

スポンサードリンク



「ノイズのある社会は可能か」
風営法問題という切り口から

小熊「運動においては①政策的な問題を設定して、それに即して手段を考える②目的達成のために人々が参加して、それを通じて成長していくという、2つの次元でものを考える必要がある。風営法に関しては、法改正という目的のためにデモ、ロビイングという手段が考えられるが、手段を巡って対立しても意味が無い。ロビイングにもデモンストレーション的な要素はあり、手段を柔軟に考えて併用していくべき」

「風営法改正運動で問題になるのは、潔癖な社会ではなくてノイズがある社会をどう作るかということ。現実的には、ベストとは言えないがゾーニングで処理するしかないのでは。それは「子どもを守りたい母親」という主体に対して「合理的」な説得が力を持たないという事実からも考えている」

小熊「どういうゾーニングなのかが肝要。例えば東京の特区にだけ巨大なクラブを作るというような方向性になった場合、「そこだけは何をしてもいい」暗黒街的になってかえって危険になる可能性もある。子どもから危険を不可視にした場合何かのきっかけでいきなり危険なものにハマることも」

「それはそう。だが現実にその言説で親が説得できないということを言いたい。オタク特区を作らせず、オタクが社会とコミュニケーションを取らざるを得ない方向性に持って行くのはいいことと思う」

小熊「社会とのコミュニケーションの文脈で言えば、クラブはグレーゾーンの営業をしているからこそ近隣住民をコミュニケーションをとって、いきなり行政を呼び出されないようリスクをこまめに処理しておくべきだった。それを怠ったためリスクが大きくなり現在のような規制問題がある」

「コミュニケーションはトラブル解決の最も低コストなやり方。トラブル時の処理コストを低くするために地域社会とは付き合ったほうがいい」

クラウド型の動員

小熊「現代は犯罪組織もネットワーク型動員になっている。新暴対法でヤクザ組織は衰えたが、ゼロリスクはあり得ず、見えにくいところが集中的にブラック化するか、リスクが不可視かして不確実性が増す。きちんと可視化して向き合い、こまめに対処したほうがいい」

「クレーマーもSNSの炎上も暴力組織も右翼もデモも、全てクラウド型の動員になっている。動員の仕方は形式だから内容は関係なく、どんな内容でも入ってしまう。これは大きな問題ではないか」

小熊「一面でそれは正しい。しかし、官邸前でもと在特会では違いもある。官邸前デモはSNSで広まったのは2000人でそれ以降は口コミで集まっていた。一方「新しい歴史教科書をつくる会」や在特会は一人だけでこっそり来る人達。口コミという対面コミュニケーションはない。この違いは大きい」

「それはわかるが、問題は日本社会がある時点で、コミュニティから切り離された個人を大量に生み出したこと、その層がネット右翼等に流れており、現代でも大きなボリュームを持っていることではないか。その結果ナショナリズムが高まり続けている」

小熊「ナショナリズムだからすなわち悪いということはない。今の在特会的なそれはいいことだとは思わないが。コミュニティから切り離された個人の増加は確か。しかし物事は常に両義的で、このことからも官邸前デモに来るだけの「自由」な時間をもった30代、40代の人間を作り出した側面もある。また官邸前デモが新たなコミュニティとなって人々の対話や成長の場にもなった。在特会がこういう空間になれば在特会の在り方も変わるだろう」

リベラルな知識

「ここ10年、リベラルな知識は少数のものとなり、後退戦を強いられている」

小熊「多様化する現代において多数派はどこにもいない。また「リベラル」は漠然とした言葉。具体的なレベルでは両義的な影響が考えられるので必ずしも悪いと言いきれない」

「官邸前デモがあれほど盛り上がったにも関わらず、選挙では自民党が圧勝した。結果に解離があるのでは?」

小熊「民主党が負けるのは不可避で、自民党が負けたのは事前情報からもそれほど意外でないが、勝った自民党も保守系の地盤が弱くなり、党としてもたなくなる可能性があることを危惧している」

「大前提として、これから自民党はよほどのことがないかぎり参院選でも勝ち。しばらく政権をとると思う。官邸前デモが偉大な成果であったのは確かだが、実際の選挙では脱原発が争点化さえされなかった。官邸前デモの構図は『一般意思2.0』で書いたものだったが、本の内容と違い、現実には熟議に匿名のデータベースが影響を与えることはなかった」

小熊「東氏のほうが期待が大きかった。脱原発に限れば7割の世論が支持するが、かつてと違い、現在はTPPなど複数のテーマが相互に連関性を失った状態である。それぞれが最も興味あるテーマに着目して投票すると必ずしもデモと投票結果は一致しない。それでもデモは自民党に影響を与えているし、出発が数百人規模だったことを考えるとよくここまで達成したなという感想」

政治と儀式
「自分は政治に「儀式」を求めているのかもしれない。形式主義。脱原発の具体的目標を議論しようとすると異論が噴出して議論自体が止まる。それよりも『基本全廃』という抽象論を共有するのが政治の役割」

小熊「その気持ちは理解できる。だが、実際に日本は原発をほとんど停めてしまっている。現状、実質2基しか動いていない。これは世界にも類例がない」

「しかし、なし崩しに2基しか動いていないことの意味付けをしないと、長期的にはどうなるかわからず駄目だと思う。ヨーロッパはこの点をしっかりしている」

小熊「なし崩しではなく運動と世論と政治の成果である。日本のこの2年の出来事は本当はすごいこと、稼働原発を2基にしてしまったことも、官邸前デモに毎週数万人集まり代表者が首相に会ったことも、世界的に例がない。すごいことをやっているが日本ではその自覚がない。儀式が欲しいというのも分かる」

「儀式なしでは民主主義が成立しない」

小熊「それは冒頭の自分の言葉では②目的達成のためにみんなが参加してそれを通じて成長していくという次元の話。確かにそれがないと政治・運動に対する無力感が広がる」

「日本では99まで成果が積み上がるが最後の1ピースがいつもない。ある種のビジョンを立ち上げ、99の積み上げをどう名付けるか、が大切。自分がやっている「福島第一原発観光地化計画」もその一環でなし崩し的にいこうとしている部分をきちんと区切ろうとしている」

おわりに
小熊「東氏は自分よりも「リベラリスト」というか「モダニスト」というかドラマ志向だと感じた。自分からすれば、社会の変化と変化の物語は別のもの。とはいえ物語の必要な部分がある所は共有できる。意見が異なる部分もあるが、結果的には近く、東氏の仕事は尊敬している」

「小熊氏の仕事は尊敬して追ってきたつもりだったが、昨年末の総選挙結果をリベラルの敗北だとは思わないという言葉には驚いた。正直納得できかねるところもあるが、持ち帰って考えてみたい」

スポンサードリンク



「感想」
小熊氏の他の著作をまだ読めていないのですが、東氏の著作はあらかた読み終わっているので『一般意思2.0』との関連の話しに興味がありました。官邸前デモ、僕自身は行きませんでしたが、学部時代に同じゼミの人が行ってましたね。チラシを掴まされたこともありました。匿名のデータベースが囲む中での熟議が具体化した形であったということです。氏は著作の中では議会をニコニコ動画で生中継するような形を想定しておられましたので、熟議中の人がリアルタイムでデータベースを参照できるかどうかという同時性の面で多少の差はあったかもしれませんね。データベースを参照できるのは議会に入る前と議会が終わった後であるので、熟議中はデータベースにアクセスしないオフライン状態に置かれていたとも考えられます。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

古市憲寿×小熊英二『真剣に話しましょう』①

『真剣に話しましょう』①古市憲寿×小熊英二
真剣に話しましょう.jpg
先月発売された小熊英二の対談集『真剣に話しましょう』を読みました。対談「集」とあることから皆様お察しのように、対談相手が多いです。本書は、今回の記事の対談相手の古市憲寿氏を始め、東浩紀氏、上野千鶴子氏…と総勢12名の対談相手との12本の対談を集めた書籍となっています。一回ごとのテーマもかなり離れたものであるので、記事では対談一つ一つを要約していった方が焦点が絞れていいだろうと思い、このような形とさせていただきました。ということで12回シリーズの『真剣に話しましょう』要約第一回目の対談相手は現在29歳、対談時点でなんと26歳の若手論客、古市憲寿氏です。この対談は氏の著作『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)の刊行記念に行われたものです。

以下に本対談の内容をざっくり要約していきます。

スポンサードリンク



冒頭
小熊「『絶望の国の幸福な若者たち』は現代日本の若者の気分を敏感に捉えていて、著者の勘の良さを示してはいる。しかし、著者があらかじめ持っていた考え(何となく幸せな若者像)に当てはまるように雑な調査を安全な範囲でしただけであり、前著『希望難民御一行様』に劣る」
古市「確かに自分のリアリティを全面に出してしまった。アカデミズムとジャーナリズムの中間くらいの本である。しかし、若者が不幸という言説が溢れる現代において、「幸せな若者もいる」というリアリティを提示すること自体に、議論のきっかけとしての意味がある」

現代の若者
小熊「ポスト工業化社会への移行によって雇用の不安定性が増している。また、前時代からの傾向として企業と学校があまりに強固な場として機能してきたため、そこから外れると居場所がない。新卒一括採用によって敗者復活も不可能。こういう現状の中色々な所に集まる若者を古市氏は描いている」

ものが安く買えることの位置付け
古市氏の著作で、日本ではユニクロの服などが安く買えることが書かれていたことについて、
小熊「日本ではユニクロや東芝製品が安く買える。カンボジアなどでも同じ値段でそれらは売られているが、現地の収入レベルからすると意味合いが違い、中産階級のステータスである。だから日本の貧困層は一見すると貧困に見えない」

レジ打ちバイトでとりあえず幸せ型の人について
小熊「こういう人は30歳を超えるときつくなってくる。「レジ打ちバイトでもとりあえず幸せ」が30歳以降も続くことはなく、これが先進国型の貧困であるということが理解されてくるだろう」

古市「30代、40代までフリーター的な生き方を続けていくモデルはありえない?ヨーロッパではセーフティーネットを充実させてこのような人達を30代前半くらいまではフリーター型で生きていける社会を構築しようとしてきている」

小熊「雇用慣行が変わらなければ無理。一度非正規雇用に落ち込むと、正規雇用に上がれるチャンスが制度的にない。キャリアアップの展望がなければ非正規雇用でも働かざるを得ず、低賃金で働くので移民も入らない」

古市「大企業志向をなくせば(選ばなければ)正規雇用にあがれるチャンスはあるのでは?」

小熊「大卒に関してはそう。だが、大卒は半分強。残りの高卒は美容師やミュージシャンなどを目指すが現実は時給数百円の過酷な状況。20代~30代前半のピーク時に自分はこれから上昇し続けると、現実に反した夢を見てしまう」

「夢をみる」ことについて
古市「「夢を見ろ」発言を真に受けると社会的弱者になる可能性が高い?」

小熊「いまのところフリーターに将来のモデルはない。現在20代の人達は、ポスト工業化という先進国共通現象と、正規雇用への敗者復活が不可能という日本独自現象の組み合わせによるこの現実がよく分かっていない」

古市「今できることは?」

小熊「雇用慣行を変えることくらい。包括的な解決案は非常に難しい」

若者論はなぜ続く?
古市「一億総中流が崩れて格差が固定化されたにも関わらず、格差論ではなく、世代論である若者論が続くのはコミュニケーションツールとして便利だから」

小熊「まだ(格差による)階級でものを語るのに慣れている人が少ない。また、時代の変化も確かにあり、80年代までに人格形成した世代とそれ以降の世代とでは傾向が違う」

小熊「また、古市氏も指摘したように移民が入って来ない日本においては人種でなく世代が語られる。日本の若者がバイトする職種(マクドナルド等)はヨーロッパだったら移民がやっている。日本における若者バッシングはヨーロッパにおける移民排斥運動とパラレルな関係にある」

小熊「教育社会学・格差研究の要素を含み、同世代の人間が若者を書いたという点で『絶望の国の幸福な若者たち』は優れている、新鮮さがある」
古市「自分自身は40、50歳になって若者論をやるつもりはない」

古市「自分のアイデンティティは研究者にはない」

小熊「アカデミックな訓練を積んだことを活かしたほうがいい。フリーの学者では食べていけない」

古市「自分は友人とやっている会社がメイン」

小熊「順調なうちはそれも可。フリーの物書きは、毎年1万部以上×2冊をやっても年収360万円の苦しい世界。1960年代は岩波新書を1冊出せば家が建つと言われたが…」

3・11等の、時代の転機といわれるポイントについて
古市「震災の影響は関東と関西では全く違った。特に関西では変わらない日常が送られていた。震災後と一様にくくって論じるのは難しい」

小熊「震災後に「日本が変わる」と活発に発言していた知識人は震災前と同じ主張を繰り返しているだけだった。それらは震災を機に自分の望ましい方向に変わって欲しいという意見表明だった」

古市「95年のオウム事件などを転機にあげることも否定していたが?」

小熊「戦後史に限れば55年あたりと90年あたりが区切りと考えている。ただしアラブの春などもあった2011年が本当に世界の転換点だったということになる可能性もある。もし数年後に日本が財政破綻すれば、震災後にまだこういう気分だったのかと『絶望の国の幸福な若者たち』が歴史に残る本になる可能性がある」

古市「2011年にもなって、まだこんな呑気なことをいっていた本があった、と(笑)」

デモに参加する世代
小熊「古市氏は新著で原発デモに意外と若者が少ないと書いていたが、若者が政治に無関心なのは1970年代以降定説にも関わらず、古臭い」

古市「オキュパイ・トウキョウにしても実際に若者はあまり居なかったが、メディアでは若者のデモとして語られる」

小熊「それはただ単に1960年代、大学生が限られたエリートだった時代作られた、デモは若者のものというイメージの残像である」

古市「若者の政治離れ仕方ないとすれば、中高年が社会を変えてくれるのを待つしかない?」

小熊「それでは中高年の都合のいいようにしか変わらない」

小熊「日本にはもはやカウンターカルチャーはない。ロックも若者のものだけではなくなった。しかしカルチャーの形でなくてもタブーはある。それをどう出していくか」

小熊「震災で一番変わったのは秩序に対する信頼である」

デモで何が変わる?
小熊「デモに対する(投票に行く方がいい。ロビー活動などしないと意味ないなどの)批判は、機能しなくなっている代議制民主主義を前提としているので視野が狭い。代議制民主主義で社会を変えるのは難しくなっている」

古市「現実には代議制民主主義が続いているので、それに則って投票なりしなければ何も変わらないのでは」
小熊「それは否定しない。しかし投票に繋がらなくてもデモが無意味ではないデモは「空気」を変える」

科学とは何か
小熊「科学とは反証可能性がなくてはならない。その点『絶望の国の幸福な若者たち』は科学ではない」

古市「確かにそうだが、逆に検証しないことでしか捉えられないこともある」

小熊「もちろんある。だがそれでもできるだけ再検証可能な方法を採るべき。その意味で『絶望の国の幸福な若者たち』は古市氏自身の枠組みをあてはめているだけで、現実から古市氏自身が正された経緯がみえないから、科学ではない」

おわりに
小熊「古市氏は自身を若者と感じているようだ。若者はその人の「未来」に対する期待で評価される存在だが、その期間は短い。この人はよくて現状だと思われた時から色々問題が起こる。まあでもしっかりした仕事をして下さい。これは期待しております」

古市「まだ未来があると思っていただいているということですね笑」

スポンサードリンク



「感想」
若手気鋭で同年代の古市氏が登場したので期待して読み始めたのですが、小熊氏に終始押され気味の印象でした。小熊氏の発言に対して古市氏が反論をしたり他の見方を提示したりすることは稀で、「確かにそうですね」という発言がかなり多いです。年長者の意見に対して敢えて反論せずに、適当に合わせるという戦略は僕ら80年代生まれに多いものとも思われるので、おそらく古市氏なりの処世術や調査スタイルなのかもしれません。トークショーとしては見ごたえに欠けるかもしれませんが、そもそも20代と50代では同じ研究者でも蓄積が違うし対等にやりあえという方が無茶かもしれませんね。レベルは全然劣りますが僕が50代の指導教授相手に修士論文の話しをする時などやはり「確かにそうですね」連発に陥りがちです(汗)…
さて、肝心の対談内容ですが、若者論を中心に現代日本に起こっている、ポスト工業化社会と敗者復活不能な雇用慣行という社会情勢、デモと代議制民主主義の関係などについて話題が展開されています。良い意味でも悪い意味でも『僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない』などとは真反対のスタンスです。雇用が減っているというスタート地点は共通なのですが、そこから現在の構造が続くと仮定してフリーター型の生き方を続けていった場合、例えば30歳を超えて正規雇用への上昇という展望もなく、親の介護も必要になってきたら…と考えるのが本対談。『僕たちは~』の方では、バイトを掛け持ちしてシェアして生きていこう!みたいな社会における人の生き方が一気に変わった世界を仮定しています。
「好きなことだけやっていたら生きていけない」というしごく真っ当な常識的な結論に行きついています。
古市氏は「若者をあきらめさせろ」などの提言で知られ、その意味では小熊氏に近いスタンスと言えるのですが、一方でフリーター的な生き方という現代日本に特有の姿を肯定することで、すなわち現代日本の社会構造を肯定してしまっている向きもあります。その点が小熊氏に若者全体の感覚を反映しておらず「あなたの枠組みだ」と批判されているようです。また東浩紀氏も名前こそあげていませんが「今の日本の在り方を肯定するような若手論客はさすがにまずい」というような主旨のことを発言しており、おそらく本書を意識しての発言ではないかと、私は考えています。

引用・参考文献
『真剣に話しましょう』 小熊英二 新曜社
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

庵野秀明『スキゾ・エヴァンゲリオン』

『スキゾ・エヴァンゲリオン』
前回の記事でご紹介した『パラノ・エヴァンゲリオン』とセットの本です。
スキゾエヴァンゲリオン.jpg
↓本書の構成
第一部
第壱章 僕たちには何もない
第弐章 物語の終わらせ方
第参章 創作とはオナニーショウである
第四章「デビルマン」とエディプス・コンプレックス

第二部
『エヴァンゲリオン』スタッフによる庵野秀明“欠席裁判”(前篇)

綾波レイとはなにか?

以下に第一部の内容をザックリ要約します。基本的に庵野秀明監督の発言部分の要約です。

スポンサードリンク



第壱章 僕たちは何もない
・『エヴァ』はオウムと共通点が多く、同時多発的な存在だった。
・一方的に質の低い文句を言うだけのアニメファンが嫌になった。皆テレビに依存している。
・『エヴァ』は自分の鏡となって返ってくるような作りになっている。情報量がやたらと多いし、見た人の投射がそのまま返るようになっている。
・庵野氏の世代は共通の体験がTVしかない「何もない世代」
・『エヴァ』のキャラクターは全員、庵野氏の人格をコアにしてできている。その意味で『エヴァ』は庵野監督のプライヴェートフィルムである。
・宮崎駿監督について、『ナウシカ』は良かった。巨神兵のシーンを手伝っている。『トトロ』くらいまではよかったが、その後はつまらなくなった。(当時公開前だった)『もののけ姫』は期待している。
・『ふしぎの海のナディア』はNHKから「『ラピュタ』をやってくれ」のような形で仕事がきた。最初は嫌だった。NHKの希望を可能な限り取り入れながら、出来るだけ排除して徐々に崩し、結果的には全力投球した作品となった。

第弐章 物語の終わらせ方
・『エヴァ』の制作後半はスケジュールががすさまじいものだった。「あそこまで「もった」ことが軌跡」。スタッフのメンタルや熱意に頼ってしまった部分が大きく、それに見合う報酬も出せていなかったため、監督としてはアンビヴァレンツな感情を持っている。
・第19話が制作班最後の総力戦だった。そこまでしたスケジュールがもたなかった。
・シンジ君は昔の庵野さんか、と聞かれるが、シンジ君は「今の僕です(笑)」14歳の少年を演じるほど自分は幼いと庵野氏は語る。
・『エヴァ』のラストは一応ハッピーエンドの体裁は取っているが、両義的である。
・全てはコピー・コラージュ・模倣であって、オリジナルなものがあるとすればそれはその人の人生しかない。「人生をつっこむ」ことでただのコピーではないものになる可能性がある。
・『エヴァ』の終わらせ方はこれまで小説や映画、アングラ演劇では試されてきたが、TVアニメでそれをやったのは庵野監督が初めてである。最終回には監督本人が実写で出る案もあったという。
・こどもが見るものであったとしても毒は混ぜるべき。そうしないと耐性がつかない。もっとも全てがエヴァのような作品だったら困るとも思う。
・『エヴァ』は庵野監督が初めて一から自分で作った作品。自分にとってチャレンジだった。終わらせ方は、広げた風呂敷をちぎって捨てた終わり方。

第参章 創作とはオナニーショウである
再び、宮崎監督作品について――「『紅の豚』はもうダメです。あれが宮崎さんのプライヴェート・フィルムみたいですけど、ダメでした。僕の感覚だと、あれはパンツを脱いでいないんですよ。なんか、膝までずらしている感じはあるんですが、あとは足からパンツを抜くかどうか」

・「自分のリアリティなんて自分しかないんですよね。うけなきゃもう裸で踊るしかない。」
・父が片足の身体障害者だった影響か、自分の作品に出てくるメカもどこか壊れていないと好きになれない。エヴァもよく奇形になった。
・コンテはぎりぎりまで描かない「神様が降りてくるのを待つ」「来た!!」という感じの時がある。
・止めで済むところは全部止めてしまって、動かすところは動かす。最小限の仕事量で最大限の効果を目指している。
・ロボットが出てくるアニメーションとしてはガンダムの1話が最高。なぜロボットに少年が乗るのかというところが自然。エヴァはそこをテンションの高さでうやむやにしてしまった。
・皆、俺を褒めてくれという考えが頭にあってアニメを作っていたが、そういう自分が嫌でもあった。それを意識せずに作ってあとは知ったことかとやったが、実際に非難があるとやはり辛い。
・この先は「降りてくるのを待つしかない」「あと10年生きて庵野さんはやっぱり『エヴァ』が最高だったねって言われるのは仕方がないと思う。」
・作中のネルフは現実世界ではアマチュア集団としてのガイナックスである。世間ではジブリのメタファと勘違いされるむきもあった。

スポンサードリンク



第四章 「デビルマン」とエディプスコンプレックス
・村上龍の『愛と幻想のファシズム』のゼロが好き。
・村上龍も自分と同じで依存心が高く何もないすごく情けない人だと思う。
・『エヴァ』もシンジが父親を殺して、母親を寝とるエディプス・コンプレックスの話。
・加持がスイカを育てる幸せも、ある種の幻想だが、全ての幸せがイリュージョンだということを認識すれば、幻想に逃避する瞬間の本人は本当に幸せなのかもしれない。
・制作中は精神分析の本を乱読して傾倒した。
・エヴァのエントリープラグはマジンガーZのパイルダ―オンをいまふうにやってみた。
・死海文書は非公開の部分があるところがよかった。
・本放送の時点で作画ができていたのが12本。フィルムまで完成していたのはわずか数本。オンエアが始まった時にもう崩壊が見えていた。
・『王立』『トップ』『ナディア』の時とかに文句を言って来た過去の嫌みな連中というイメージがゼーレ委員会にはあった。
・永井豪からの影響が大きい。『エヴァ』には『デビルマン』のイメージが影響している。また、マンガ『ナウシカ』の7巻も高く評価して影響を受けている。
・自分も他人も、世間もアニメファンもアニメ業界もあいまい。日本全体もあいまい。そのあいまいさが嫌だった。それで、自分と世間のボーダーをつくってみたいというのがある。作中ではATフィールド。
・自己言及が行き詰るのは仕方ない。自分たちの世代のヒーローであるとんねるずも、基本パロディをやっている。パロディから始めて自分のものを乗せていくしかない。
・『エヴァ』放映終了後、鬱が激しくなって自殺念慮が出たりして大変だった。
・アニメ監督の仕事は基本的に上がってくるカットに対してOKとNGを判断すること。手を抜こうと思えばいくらでも抜ける。
・NGを出してもやり直していいものを作ってもらうほどギャラを出していない。
・エヴァを観た人の感想はその人の本質的な部分。心理学的にその人の本質が見えてくる。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

庵野秀明『パラノ・エヴァンゲリオン』

『パラノ・エヴァンゲリオン』
パラノエヴァンゲリオン.jpg
1995年~1996年の、TVシリーズ全26話放送終了直後になされた、庵野秀明監督とメインスタッフに対するロングインタビューをまとめた本です。もう一冊の『スキゾ・エヴァンゲリオン』とセットになっています(こちらも近日まとめをアップ予定)。
現在新劇場版エヴァが制作進行中ですが、この本はTVシリーズ終了と旧劇場版公開の前の間の期間に作られています。現在庵野秀明監督が54歳ですから当時は37歳です(若い!)インタビューの雰囲気も90年代っぽさが出ていて当時を知る人にとっては懐かしい一冊かもしれません。

↓本書の構成です。
第一部 庵野秀明ロングインタビュー
第壱章 もう、僕は勉強しない
第弐章 ダイコンフィルム誕生
第参章 エヴァへの長い道
第四章 絶望は思うんだけど、そこからスタートです

第二部 『エヴァンゲリオン』スタッフによる庵野秀明〝欠席裁判″(後編)

第三部 私とエヴァンゲリオン

以下に一部および二部の内容をザックリ要約してみたいと思います。(三部は著者によるエヴァのたとえ話なのでカット)

スポンサードリンク



第一部 庵野秀明ロングインタビュー
第壱章 もう、僕は勉強しない
ファンの批評について…一般のファンは表層的な方法論でしか語れない。同じ作り手・表現者の方が良い批評をする。(庵野秀明を分裂病と書いた)野火ノビタの批評良かった。
故郷…山口県宇部市。ド田舎。中学生までは学級委員をやったりと優等生だった。
家族…両親と7つ下の妹。兄弟関係は希薄。家は貧しかった。
最初に観た映画…爆発のシーンだけ覚えてる。
怪獣とヒーロー…ゴジラもガメラも仮面ライダーもそれなり。ウルトラマンは『帰ってきたウルトラマン』がグー。
宇宙戦艦ヤマト…家の白黒TVで観た
もうぼくは勉強しない…地元で一番の進学校・宇部高にギリギリで受かる。入学式の時に「もう勉強なんかしない」と誓う。
76年~77年のヤマトブーム…『OUT』創刊二号のヤマト特集に衝撃を受ける。アニメファンが市民権を得たという感覚が初めてあった。しかし、劇場版では「こんなに周りに人がいるともういいや」と冷めてしまう。さらに続編『さらば宇宙戦艦ヤマト』では物語的に必然性のない特攻をする場面に笑っている。周囲は泣いていた。
高校時代…美術部の部長になって8ミリ映画を撮っていた。カメラはそれまで貯めた金をはたいて手に入れた。最初のアニメは大失敗。その後『ナカムライダー』というヒーロー物実写を文化祭でやって受けた。勉強は本当にせずマージャンにはまる。

第弐章 ダイコンフィルム誕生
※ダイコンフィルムとは…1981年~1985年にかけて活動した自主映画の製作集団。後にエヴァをつくる会社『ガイナックス』の母体になる。
大学入試…現役時代は国立の教育学部を受験するが失敗。1年間遊ぶ。浪人2年目に親から「どこでもいいから入れ」と言われ、実技試験のみの大阪芸術大学に合格した。試験対策は宮崎駿監督の絵コンテを見て「こんな感じでやればいいのか」という程度だったが、後に教授に聞いたところでは、庵野氏の答案はかなり優秀だった。大学に入ってよかったことは後にダイコンフィルムやガイナックスの中心メンバーになる人達と出会えたこと。
大学時代…非常に優秀だった学生時代に作ったフィルムは今では伝説となっている。しかし学外での制作がどんどん忙しくなり、大学は放校処分。
ガンダムとの出会い…ガンダム放映開始と同時に衝撃を受ける。「ロボットもののエポック。グーでしたね」当時高価だったビデオデッキが家になかったため、テープを買うかわりに店のデッキを貸せという契約を電気屋と結んで録画した。
ウルトラマンシリーズ…特撮技術にプロ並みのこだわりを施しながら、ウルトラマンはウィンドブレーカーにペイントしただけの庵野氏というウルトラマンの8ミリを撮り始める。これはシリーズで3作になった。
ダイコン3・4…岡田斗司夫らと関わりダイコン3・4でアニメを制作した。大学の同じ寮で友人の山賀博之は『マクロス』の現場を手伝ってプロの手法を学んできたという。元々イベントが終われば解散する予定だったダイコン3を恒常化してできたのがダイコンフィルムである。
決別…ダイコンフィルムで『ウルトラマン』を制作している時に行き詰まりがあった。庵野氏の責任問題が発生し、監督してきたウルトラマンの企画を取り上げられるということがあり深く傷つく。そんなグループはいやだと、東京へマクロスを手伝いに行った。

第参章 エヴァへの長い道
板野一郎…スタジオぬえでマクロスの手伝いをする間、板野一郎に出会い影響を受ける。庵野氏が「師匠」と言うのはこの板野氏ともう一人宮崎駿監督だけである。
宮崎駿…ダイコン4が終わった頃には、大学を放校処分になっていた。そこで、ダイコン4で描いた原画をカバン一つにつめてトップクラフトの宮崎駿監督のもとを訪れる。結果、庵野氏の実力を認めた宮崎監督によって『風の谷のナウシカ』における巨神兵のシーンの原画として大抜擢される。(普通、動画で経験を積んだ後に原画を担当する。上京したばかり、初参加の庵野氏が原画を担当するのは常識ではありえなかった)当時、家がなかったのでトップクラフトに寝泊まりした。本書刊行当時でも東京に借りたアパートには年数回しか帰っていないという。(さすがに2014現在では既婚なので家に帰っているのだろう…)
庵野氏は宮崎監督を第二の師匠。すごい人と話す。
高畑勲…その後『火垂るの墓』の現場に参加。船を資料に基づいてリアリティを追及して描いたのに、編集で黒く塗りつぶされていた。
ガイナックス結成…ダイコン時代の仲間が中心になってガイナックスが作られる。『王立宇宙軍・オネアミスの翼』の製作に参加し、伝説となっている有名なロケット発射シーンを手掛ける。
フーテン…『王立』が終わったら解散という話だったガイナックスが解散しないため距離を置き、フーテン生活をしていた。
『トップをねらえ!』…ガイナックスに戻って監督した。初の商業監督作品。ヒットした。
『ふしぎの海のナデァイア』…NHKで放送した。ヒットしたが孫請け状態だった会社は赤字だった。
『蒼きウル』…エヴァの前に山賀氏が監督となって立ち上がった企画だが凍結されてしまった。ここで「自分でやるしかないんだ」と『エヴァ』へと動くことになる。

第四章 絶望は思うんだけど、そこからがスタートです
綾波レイ…庵野氏の深層心理に一番近い。自分としては全然思い入れがなく、途中存在を忘れていた。7話には思い出して1シーン、レイのカットを足したことも。
孤独感…孤独感はあまり感じていなかったが、人間に興味がなかった。動物も植物も嫌いで肉や魚も食べない。
人間ドラマ…人間ドラマなんてそう簡単に描けるものではない。自分にも全然できていないという意識がある。フィクションで描くのは才能が足りないのでエヴァのキャラクターにはすべて自分が投影されている。その意味でエヴァはノンフィクション・ドキュメンタリーに近い。
ヒットについて…「あたるアニメはない。あたったアニメがあるだけ」。エヴァもまぐれ当たりだと考えている。利益は頑張ってくれたスタッフにできるだけ還元している。そうすることで、賃金体系など問題が多いアニメ業界を変えていきたいと考えているが、エヴァは特殊事例と思われ「ガイナックスは金をばらまいている」など心無い批判も出ている。
恋愛…自分は好きな女にはフラれるタイプ。女性に母親を求めてしまう。心の穴が大きいので恋愛だけでは埋まらない。結婚した人は「薄まってしまう」と考えている。創作は「飢え」である。
発言…最近色々な人から誹謗中傷を受ける。自分が幸せならそれでもいいが、自分は幸せを感じていない。成功した気分も味わっていない。幸福でなく、現実感がない。庵野氏自身が他人を批判する時は自己批判の側面もあるが、わざとそれが分からないように話すので妬まれたりする。
エヴァTV最終26話の画面がピキーっと割れてキャラクター全員がパチパチ拍手して主人公を祝福するというラストは、どうしてそうなったかという一番の理由は言うつもりがない。誰にも核心は話さず「…まあ、その部分は僕と一緒に墓の中ですね」

スポンサードリンク



第二部『エヴァンゲリオン』スタッフによる庵野秀明“欠席裁判”(後編)
出席者
大月俊倫“スターチャイルド”レーベル・プロデューサー
貞本義行『エヴァンゲリオン』キャラクターデザイン・漫画家
佐藤裕紀 ガイナックス広報部長
鶴巻和哉 TV版『エヴァンゲリオン』副監督
摩砂雪 TV版『エヴァンゲリオン』副監督

なぜ主人公は男なのか…最初、庵野監督は主人公を女にすることにこだわっていた。まさかあんなに女々しい男になるとは思わなかったが、村上龍の『愛と幻想のファシズム』に影響されたのではないか?

「逃げちゃダメだ」について…庵野監督の当時の心情が説明なしに入り込んでしまっている。

父親と母親(1)…最終2話について、最後の引き出しを開けていて、次を考えない・普通ではできない作り方で、他の人間ならもっと楽な道を選ぶ。一方、父と子の葛藤というテーマは描き切れていない。

父親と母親(2)…庵野氏は当時流行っていた、男性にとって都合のよい女性が母親的に接してくれるという作品が「気に入らん」と話、父性的な話をやりたかったが、ゲンドウが人間になっておらず、父性の欠如した作品になってしまった。

父親と母親(3)…エヴァを観ていると実は母親との葛藤の方が大きいと思われる。インタビューでは母親について一切語らなかった。

父親と母親(4)…庵野氏らの世代から美少女しか描きたくないという人が出始めた。業界的には美少女を主人公にするのは営業的な側面も大きいが…

父親と母親(5)…第20話のサルベージの回の解釈では意見が分かれる。

庵野秀明は「変われる」のか?(1)…庵野氏は変わらなきゃいけないという強迫観念があるが、一方でそんなに変わるつもりがないのでは?頭の中で考えるだけで現実の自分を変えるつもりがないので最終回のような極端な観念劇が出てくるのでは?

庵野秀明は「変われる」のか?(2)…庵野氏は太宰治的な人間。絶対変わらない・自閉はだめだと言いながら自閉じ向かっている。
最終回の自己啓発的な展開は、夜中に部屋に訪れた庵野氏に貞本氏が話したところ、そのまま素直に作品に出してしまった?

シンジはなぜ乗ったか?(1)…シンジがエヴァに乗る理由づけは完全には成功していない。怪我をしたレイが登場する必然性もなく、「男だったらここで乗る」という場面演出のためである。1話は非常に高いテンションであり、摩砂雪氏は本当にこのまま最後まで行けるのか?と危惧していた。

シンジはなぜ乗ったか?(2)…ガンダムの1話を仔細に分析した庵野氏はこれは絶対に越えられないと話していたという。

綾波レイの微笑み…6話でレイが笑うコンテが出来た時点で庵野氏はエヴァは成功だ、と睨んでいた。その後レイが死んでリセットされたり、シンジがエヴァに乗ることを拒否して再度乗る展開が繰り返されたりと、エヴァは反復の物語である。

最終二話について…25話ができた時点では「俺って天才」と言っていた庵野氏だが、放映後は「なんでこんな変なものを俺は作ったんだ」となっていた。
出演声優にとってもエヴァは特別な作品であり、25回の脚本を読んで泣いていたり、いまだに冷静に振り返れない作品だと話したりしている。

オタク批判…庵野氏はエヴァンゲリオンの成功によって神格化されている節がある。身近なスタッフは庵野氏はそういう人間でないと感じている。

自殺願望…たびたび自殺願望を口にする庵野氏だが、スタッフはまともに相手にしない。「絶対に自分で死ねない人間」だと確信している。

最後に…庵野氏の笑えるエピソード・バカ話をしながら仕事をする姿などが暴露される。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

堀江貴文・岡田斗司夫FREEex『ホリエモンとオタキングがカネに執着するおまえの生き方を変えてやる!』

『ホリエモンとオタキングがカネに執着するおまえの生き方を変えてやる!』を読みました。堀江貴文氏と岡田斗司夫FREEex氏が常識破りな生き方について語っている対談を収録した本です。
無題.png
↓本書の構成です
はじめに
第1章 やりたいことだけやって生きる
第2章 個人の力を「拡張」せよ
第3章 貨幣経済の限界
第4章 「儲けよう」とするな
第5章 素人だけで傑作アニメを作る
第6章 次世代型・資金調達法
おわりに

以下に各章の内容をザックリ要約していきます。

スポンサードリンク



第1章 やりたいことだけやって生きる
〈自己紹介〉…堀江氏は岡田氏が社長を務めていたGAINAX制作の『王立宇宙軍 オネアミスの翼』にハマっていた。(※GAINAXは後に『エヴァンゲリオン』を監督する庵野秀明氏をはじめ、その大阪芸大時代の仲間など、様々な才能が集まっていた会社。ブログ主注)
『オネアミスの翼』監督の山賀氏を堀江氏は「才能があるんでしょう?」と聞くが、岡田氏曰く「才能は関係ない。それはやっている最中に出てくるもの」と答える。

〈宇宙開発〉…堀江氏は宇宙開発に取り組んで誰でも簡単に宇宙に行ける世界を実現しようとしているが、元々はGAINAXへ行って、『オネアミス』の続編を作りたいと考えていた。誰でも宇宙へ行けるという世界を描きたいという動機は一貫しているのだ。堀江氏はさらに『オネアミス』の舞台になったような地球外惑星に行ってみたいと考えている。

〈人間の寿命について〉…岡田氏「過去の人間は皆死んだが、自分にそれが当てはまるとじゃ限らないので、俺は死なないと決心した」
堀江氏「科学的に考えると、寿命を延ばす上でネックになる心臓と脳の再生医療は技術的に可能。あとは誰かがやってくれるのを待って、1600年くらいなら生きてもいいかなあ」

〈宇宙開発の限度について〉…堀江氏は反物質エンジン、冷凍睡眠、原子力エンジンなどを実用化して、生きている間に他の恒星系の知的生命体とのコンタクトは可能だと考える。
岡田氏は、そのペースでの技術進歩は難しく、生きている間には太陽系内でホテルを経営くらいに、目標を下方修正した方がいいのではと考える。

〈結局『オネアミス』の続編は?〉…堀江氏はかつて作る予定だった頃ライブドアCEOをやめたので話が消え、現在は本物のロケットエンジンを作っている。安価に人を宇宙に送り込むことが目標で、第一目標は一人1000万円で地球の衛星軌道上に送ること。岡田氏は消えたアニメ案をテレビでやって、宇宙開発に集まる人を増やすことを提案する。

〈堀江氏のこれから〉…堀江氏は2005年に仕事が全てうまく回り、自家用ジェットも買って、さらにジェット内でネットを使えるようにし、世界中どこにでもアクセスできる環境を整えつつあった。本当に楽しかったが、「あの事件」があり(※『刑務所なう』や『刑務所わず』参照。そのうちレビューを書こうと思ってます。ブログ主注)、一度リセット。同じことをやればすぐに成功できるが、それではつまらないので、今度はロケットをやってる。必ずうまくいくと信じているし、自分の世界では自分が主役。岡田氏はそれを「小4病」と称し、世の中で100万人に1人くらいはいたほうがいいから、堀江氏はそのままで生きるようにとアドバイスする。

〈他人の信頼戦略〉…岡田氏によれば、普通の人は「身内になればなるほど信頼でき、関係が遠く他人になるほど信頼しない」という決め打ち戦略をとるという。だから、身内による裏切りの不倫も良くないこととされる。堀江氏は「どんな人にも良い面悪い面ある」と考えており、身内だからと考えない。またけなされることに慣れているので、自分に親和的な人ばかりではつまらない。

〈女子は彼氏を3人作ろう〉…岡田氏によれば、女子は彼氏を3人作れば、恋人に求めるものは大体カバーされ、精神的に安定する。一方男はそうしようとすると歯止めが利かなくなって恋愛刺激ジャンキーになり、無数の娘と付き合いつつ幸せから遠ざかる。堀江氏はこの恋愛刺激ジャンキーになっているということで納得している。

〈日本人の傾向について〉…岡田氏によれば大人が社会の虚像を子どもに教えようとしていることがかえって現状を悪化させる。親世代の価値観とは違う価値観形成を子どもがするので社会はどのみち揺り戻しがくる可能性がある。堀江氏は、どうして皆が他人のことをそこまで気にしたり、占いにすがったりするのか分からない、と話す。岡田氏による分析ではそれは「日本人の弱さが分からない」という発言である。この世の産業は全て人間の弱さを補完するためにあると考えると理解しやすいとのこと。

第2章 個人の力を「拡張」せよ
〈FREEexの仕組み〉社員が社長である岡田氏に年会費12万円という形で給料を払う。
その代わり、社員は岡田氏と仕事をする(本を出版したり)という権利を得る。岡田氏の作ったコンテンツはタダ(著者印税ゼロ・講演やTV出演料もタダ)である。社員は3年で卒業する決まりと上限が300人までという決まりがある。

〈FREEexの理念とメリット〉…「よいコンテンツは必ず無料になる」という法則がある。岡田氏は自分のコンテンツは人類にとって有益なので無料で届けられるべきと考える。そうすることで「人類の苦痛の0.3%を軽減すること」を目標に掲げる。メリットとしては、経営の安定がある。普通の著者印税10%では1500円の本が一万冊売れて150万円の収入。ロフトプラスワンでのトークイベント出演で一回12万円の収入…とやっていくよりも安定してコンテンツを提供できる。FREEexに12万円払って入ろうという奇特な人間に「めんどくさい人」はいなかった。他人のために何かをするという考えが次世代を良くしていく。

〈exシステムのススメ〉…ロケット作りなども可能か?と聞く堀江氏に対して、岡田氏はホリエモンFREEexを作ることを勧める。「お金の流れはどちらでもよい。社長にお金を出す、という流れでも、忠誠心は生まれ、参加ハードルが上がることで能力の高い良い人が集まる。また、お金の流れが従来の上から下ではないので、辞めたくなったらいつでも辞められる。このことが社長と社員の関係を良くする。従来のお金の流れでは辞めたくても辞められないなので、それが関係をダメにした」堀江氏は「よく考えられたシステム。自分は思いつかなかった」とコメントする。

第3章 貨幣経済の限界
〈堀江氏がいかに資本主義の先端を走っていたか〉…ライブドアでやろうとしていたことは、「株式を通貨にする」という壮大な実験だった。そのため株式を極端に分割していた。
これは明らかに合法なのだが、進行するとライブドア株が、通貨としての力を持つようになるプランである。国家としては3大権力の一つである通貨発行権を合法的に崩される危険性があり、堀江氏を別件で逮捕したのではという見方も可能である。

〈貨幣経済は限界?〉…岡田氏は貨幣経済は限界を迎えている(極端な格差と一極集中)と考えている。堀江氏はベーシックインカムの導入などで最低限の所得保障を行えば問題ないと考える。岡田氏もそれには同意だが、そこに至る道程には問題が残されるとする。

〈評価経済の話へシフトしていく〉…堀江氏のメインコンテンツである有料メルマガも、『うんち・おならで例える原発解説』のメディアアーティスト八谷和彦氏も、個人の名前に対する評価が高く、その評価に対してお金や集合知が集まる。現代ではこの集合知・「知の恵み」をいかに得られるかが重要である。

〈評価経済とは?〉…貨幣の代わりに、評価が流通する社会のこと。貨幣がいきなりなくなることはないが優先順位は変わっていく。
評価経済的視点から見ると、exシステムとホリエモンメルマガは共通点が多い。ホリエモンのメルマガも堀江氏に対する評価があるため、人が簡単に集まる。堀江氏が仮に会社を作るとあっという間に人が集まるが、これはすでに支えてくれる人の数が臨界点を突破している例である。

〈ホリエモンexでアニメを作る?〉…岡田氏は堀江氏を主人公にしたSFものを作ることを提案。SFが未来をイメージとして見せないと技術者も何を作るかイメージしづらいTVアニメ1話2000万円×52話=10億円かかるという話に堀江氏は「たけえっ!」と驚く。

第4章 「儲けよう」とするな

〈原子力の技術は残すべき〉…今すぐ全部やめるというわけにはいかない。日本がやめてもどこかがやる。技術的には福島第一原発は50年前の技術で作られていて、現代はもっと安全な技術がある。大学で原子力関連の学部に人が集まらず、成績の悪い学生ばかりになっている現状は危険とも言える。

〈国家から個人へ〉…YouTubeを使えば個人でも映像を配信できる時代。これからは評価を集めた人の所に沢山の人が集まるようになっていく。現代の貨幣経済は格差が固定して、一部の超金持ち以外はタダ働き状態だが、評価経済ではその状況をシャッフルできる可能性がある。

〈情報を判断する〉…情報を正しいものとデマとをえり分ける能力は、現代ではもはや個人では十分なレベルにすることは不可能で、所属するコミュニティの質がそれを決める。
堀江氏は東日本大震災の後に、著名だったためTwitterに安否確認や災害情報のリツイート依頼が殺到した。それらをリツイートしていると、ある人のニーズを他の人がすぐに解決するなど、「クラウド版ドラえもん」状態になっていた。これも評価経済の例。

〈貨幣から評価へ〉…これからは貨幣のやりとりが減っていく。コンテンツのフリー化・仕事の機械化で、仕事自体が激減し、人口の5%ぐらいが旧来の給料をもらう働き方をし、他の人たちはベーシックインカムで生活しながら、複数のアルバイトをやったりという社会になっていくだろう。

第5章 素人だけで傑作アニメを作ると第6章 次世代型資金調達法
ホリエモンの作りたい『オネアミス』の続編の作り方について、pixivを通じて、素人の集合知でイメージボードや作画をしてしまう、資金については、そのアニメを観たい人、制作に参加したい人などからクラウドファンディングのCAMPFIREを使って一人1万円くらいづつ集めるなどの常識破りな方法を提案する岡田氏。従来のアニメ制作が監督を中心とした中央集権的な仕組みであるのに対して、クラウドを用いた完全なネット社会型でのアニメ作りを目指す。これは、宮崎駿監督や庵野秀明監督のような超天才だけが作品を作れる世界ではなく、だれもが作品作りに関われるという世界を実現できる試み・さらに同時に素人がアニメ制作を学ぶこともできるという試みである。

スポンサードリンク



「感想」…岡田氏も堀江氏も、個別の方法ではなく、仕組み・原理に着目した思考過程を重視して対談するので、分野が違ってもポイントがずれることなく話が展開していきます。岡田氏自身が「はじめに」で書いているように、この本は「思考過程」を学ぶことができるという点で有用であると思われます。ネット社会による変化・新しいプラットフォームの出現を活かせば、貨幣経済からアニメ作りまであらゆる仕組みが転覆されうるという話でした。

これらは一貫して「中央集権から個人レベルへの拡散」という方向を取り、「天才から普通の人たちの集合知へ」という方向への移行でもあります。

これに関して連想したのが、最近の人気Youtuberの方たちですね。彼らのやっていることはギャグやチャレンジ、料理、メイク方法などの発表で、要は今までテレビでお笑い芸人や芸能人がやっていたことです。
それが個人で動画配信が可能なプラットフォームであるYoutubeの登場によって、芸人と消費者(視聴者)がダイレクトにつながることができるようになりました。これによって、TVという旧来のプラットフォームでは、芸人と消費者の間に入って手数料・マージンを取っていた芸能事務所の存在が必要なくなり、中央集権的な旧来の仕組みが一定程度打撃を受けたと言えます。「コンテンツ産業はネット社会の到来によって生き残りが厳しくなる」と言われていますが、本当にこれからTV関連でマージンを取っている企業は厳しくなりそうですね。ただし、Youtuberがこれから安泰なのかというと、現状一発屋芸人や数クールのTV番組と同じことをしている人が大半なことを考えると、今人気な彼らのたどる道も恐らくTVの一発屋芸人や番組と同じになる可能性が高い気がします。これから長期的に生き残るYoutuberはTV時代とは違うネットだからこその付加価値を付けた新しいタイプの人になっていくでしょう。コンテンツが前時代的性格をひきずっている間はまだ時代が移り変わったとは言えず過渡期のままだと言えるので、新しい価値を提供できる人にとってはチャンスの時代かもしれませんね。

またお二人の著書『もう国家はいらない』『僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない』の思想に至る直前の意見が交換されあって、考えが進んでいくのが感じられてよかったです。

参考文献 『ホリエモンとオタキングがカネに執着するおまえの生き方を変えてやる!』
堀江貴文・岡田斗司夫FREEex共著 徳間書店



nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

『プラハ日記』

『プラハ日記』を読みました。
プラハ日記.jpg
大学図書館の棚で見かけて何気なく手にとってみた本です。最初はパラパラとめくって終わりにするだけのつもりだったのですが、引き込まれて結局最後まで読んできました。
『プラハ日記』は第二次世界大戦中にプラハに住んでいた14歳のユダヤ人少年ペトルが、強制収容所に移送されるまでの間に2年間、日々の出来事を書きつけていた日記です。
ペトル少年はあらゆる方向に才能があったらしく、将来は作家、編集者、画家あるいは研究者を夢見ており、また戦争で亡くならなかったなら間違いなくそのクリエイティヴな才能を開花させて著名な人間になっていたろうと評されています。

スポンサードリンク



日記は戦後紛失していたのですが、スペースシャトルコロンビア号にペトルの絵が載せられていたことをきっかけに発見されます。コロンビア号が不運な事故に遭い世界的なニュースになった際、乗組員の一人がユダヤ系の出自を持っており、ペトル少年の絵を持ちこんでいたことが報道され、ペトル少年の名は一躍有名になりました。それを見た当時の日記所有者が届け出て、戦争を生き延びたペトル少年の妹の手により世界的に出版されることとなったのです。

さて、日記の内容ですが、「もうひとつの『アンネの日記』」と評されることがあることから分かるように、当時の世相を反映した記録の側面があります。一方で『アンネの日記』と『プラハ日記』には記述のスタイルに明確な違いがあります。『アンネの日記』には登場人物の言動やその時のアンネの気持ちなどが生き生きと描かれるスタイルでしたが、『プラハ日記』は淡々とした描写に徹するスタイルです。その日に起こった出来事を感情を込めることなく「市電に乗っていて、ユダヤ人だからとドイツ人に怒鳴られて、追い出される」ことも「クラスメートやおばあちゃんが移送された」ことも「テストの成績」も平等に記述されていきます。ペトル少年が14歳にしていかに社会を冷静に見つめていたかが分かり、彼の並々ならぬ才能がうかがわれます。
もちろん『アンネの日記』との比較は、スタイルに関するものであって、優劣は絶対につかないものですし、『アンネの日記』の歴史的・文学的価値は僕なんかがわざわざ言及するまでもないほどとてつもないものです。一応念のため。
ペトル少年の洞察の鋭さを象徴する文として本書を編集した妹ハヴァは次の一文を引用しています「今の世の中で当たり前とされていることは、時代が違えば絶対に許されないことだろう」
ノート2冊に記された日記の終盤は、筆跡が神経質になり、ペトル少年がいよいよ自分の移送が近づいたことを明確に感じ取り、精神的に負荷がかかっていたことが読み取れるそうです。それでも記される内容はやはり日々の出来事を正確に記述したものでした。

緊迫した状況と淡々とした文章がかえって緊張感を生み、この『プラハ日記』も歴史的価値があるのみならず、文学作品として非常にすぐれたものになってます。

移送後は2年間を仮の集積地に収容されて過ごしたペトル少年は、仲間と週刊誌を創刊してその編集長を務めたり、小説を書いたり、絵画やリノリウム版画を制作したり、学問に励んだりと教養への飽くなき探求心を表しています。収容施設での彼は同じ宿舎で「一番インテリジェントな男の子」と評されていました。

2年後、16歳となったペトル少年は、すれ違いで移送されてきた妹とつかの間の分かれをして、最終処分場があったポーランドへ送られ、そこで命を落としました。

スポンサードリンク



「感想」
マクロの視点とミクロの視点から考えさせられる本でした。
まず巨視的に、マクロに考えると、第二次世界大戦とナチスによるホロコーストという、個人の力ではもはやどうしようもなかった歴史の流れ、社会状況に翻弄される個人の非力さ、ちょっとしたことで人間が卑劣な価値観にはまりこんでしまうことなどが、冷静に書かれた個々の出来事から浮かび上がって見えたと思います。

またミクロの視点からペトル少年と自分を比較して考えると、まず14歳の時に自分はこんなに大人の考え方をして冷静に自分の運命を見つめられただろうか?と身につまされる思いがしました。答えはノ―で自分はもっと甘えた人間で、ここまで自分を見失わない優れた日記は絶対に書けなかっただろうと思います。それは今でもそうかもしれません。

自分は一時的に平和な日本という文脈に生まれ、歴史は一応学ぶものの、世界の中で自分がどのような所に位置付けられているのか?日本とはどのような国なのか?についてはかなりあいまいな認識しか持っていないと思います。そういう話しの一つとして連想したのが僕がプラハに滞在した時のことです。
二年前に金が無いのをおして、初めての海外旅行をし、実はプラハに立ち寄ったのですが、ホテルの朝食のテーブルに置かれている新聞には、当時から日本と中国の間で問題になっていた尖閣諸島のニュースが書かれていました。どちらの国のものだということは書かれず、「中国と日本が領有権を主張する~」といたって中立的な書き方でした。第3国のメディアなので当然なのかもしれないのですが、日本で教育を受けTVを観ているだけだとこうした視点に気付けないこともあると思いました。
街の人は皆チェコ語・ドイツ語・英語と複数の言語を操るし、歴史的に複雑な場所だということは何となく伝わってきたのですが、帰国してから調べると本当に歴史が積み重なった古い街のようです。一度しか行ったことのない場所ですが、何故か心に残り、たまに関連書籍を読むことが楽しみになっています。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:
前の10件 | -

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。