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マックス・ウェーバー『職業としての学問』

マックス・ウェーバー『職業としての学問』を読みました。
言わずと知れた社会学者の講義録。現代の学生も必読と言われる古典です。
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【背景】
1919年、第一次世界大戦の最中にミュンヘンでウェーバーが行った講演の記録です。当時の若者は、「認識を超越した体験」を求めて、単なる教師に飽き足らず、自分達に道を示してくれるような「指導者」を大学に求める状況でした。ウェーバーはこのような風潮を若者の弱さであるとし、学問の本質を理解していないことだと喝破するかのようにこの講演をしたということです。

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以下に本書の内容を要約します。見出しは僕が勝手に付けています。
【職業としての学問をとりまく矛盾。学者稼業には夢がない】
ドイツの大学の雇用・昇進制度をアメリカと比較しながら論じ、ドイツでは大学に職を得ることができるか、教授などに昇進できるかは研究能力には関係なく、まさに運といういい加減な要素で決まると言う。それはたとえば次のようなことである。

職業として学問をすることには二つの異なる能力が関係する。一つは「研究者としての能力」もう一つは「教育者としての能力」である。教育者としての能力は学生を多く講義に集められるかどうかで数学的に計ることができるが、学者としての能力は計ることができない。特に大胆な学説を唱えたりする場合は尚更である。そして、学生が多くあつまる講義というのは、教師の気質とか声の調子とかの外面的な要素に依るのである。こうした外面的な要素を持って生まれるかどうかは全くの運であり、さらにこの二つの能力を兼ね備える人間というのは普通存在しない。だから、もし職業として学問をするなら、自分よりも凡庸な人間が先に昇進していくという現実を突き付けられなければならない。

【学問もアートのように情熱・霊感が必要】
学問は現在専門化の一途、細分化の一途を辿っており、それは今後も続く。だからと言って、学問は単なる機械的な計算に終始していればよいと考える最近の若い人間の風潮は間違いである。
学問も芸術等と同じように情熱、そこから出てくる霊感が必要である。機械的な計算だけから学問は進歩【せず】適切な「思いつき」が必要になる。この思いつきの能力は専門家と素人に差がない。両者を分けるのはその思いつきを検査する学問的手段を持っているかどうか、である。だから思いつきと機械的な作業両方を持つことが必要である。
学問に情熱を持つとはどういうことか。それは例えば古い文献のある一文の正しい解釈などに全身全霊を喜んで捧げるような感覚である。大切なのは仕事そのものに滅私して仕えるかどうかである。仕事を売名の道具として考えて行っても二流のものにしかならない。

【学問は価値判断から脱しなければならない】
学問は芸術と違い、どんどん時代遅れになっていく。むしろ後の世代がさらに進歩することを期待するという意味で学問は自分自身が時代遅れになることを望む領域であると言える。このような性質を持つ学問に意味はあるのだろうか?ここでウェーバーはロシアの文豪、レオ・トルストイという補助線を引きながら考察を続ける。結論は「生にも死にも意味はない」究極的には学問に意味はないとする。
(西洋の)学問は元々、キリスト教の伝統から始まった。「理性は人間の能力の内唯一神と同じ原理で働くものである。神はこの世界を創造して後去った。人間である我々は理性を用いて世界を分析し、神がこの世界をどう設計したのかを読み取ることで神の意思を読み取ろう」(橋爪大三郎『不思議なキリスト教』を参照)
だが、この初期の見解はウェーバーの時代までに忘れられ失われた。そして、学問は「世界に何らかの意味があるかどうか」という問いに答えるものでは無くなったのである。それゆえ、どの学問もその前提を論証することはなくなったしできなくなった。天文学が追求するところの宇宙の根本原理が知る価値があるかどうかは天文学には論証できず、医学によって助けようとしている人間を助ける価値があるかどうかは医学には論証できず、法律を決めることに意味があるかどうかを法学には論証できないのである。学問は価値を論じることなく、学問それ自体のために追求されるべきである。

【大学の講義で政策を話すべきでない・指導者と教師は違うもの】
学問は価値を論じるのではなく、事実の確定をするものである。街頭演説と違って反論する人間もいない環境であることをいいことに大学の講義で政策やどう振舞うべきかなどについて語ることはやってはいけない。若者たちは「体験」を大学の講義にも求めているようであるが、それはもはや現代の専門家した・脱価値判断化した学問に担えるものではない。若者たちは「指導者」を求めて、日常茶飯事化した学問を取り扱う「教師」に我慢できないのであるが、それは日常茶飯事に堪える強さを持たない、意味を求める若者が弱いのである。この日常茶飯事に堪えられない若者は職業として学問をするのではなく、大学の外で宗教や職業に従事するのがよい。

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「感想」
学問が高度に専門化し始める時代に立ち会ったウェーバーですが「これは今後も続く」と100年前に言いきっている冒頭近くですでに本書が普遍的な書として読み継がれてきたことを実感します。教師でなく、扇動家・指導者を求めてしまう・生に意味を求めてしまう心の弱さは僕にも図星な所が相当あります。名著は古びないですね。
また、学問に限らず職業で何かを達成する際に大切なのは、僕の言葉で要約すると「承認欲求に基づいてやったのではダメで、職業そのために自我を滅して集中してやること」とウェーバーが指摘していることも印象的ですね。好きこそものの上手なれ、的な感じでしょうか。有名になりたいから、他人に褒められたいからという動機でやった仕事はどこか突き抜けず、全然アートでない二流にしかなれないということですね。

参考文献
『職業としての学問』 マックス・ウェーバー著 尾高邦雄訳 岩波文庫
『ふしぎなキリスト教』 橋爪大三郎 大澤真幸 著 講談社現代文庫
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