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平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』

平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』 を読みました。
ごく短く要旨をお伝えすると、人間は分けられない「個人」だと考えるのは幻想で、人間は本当は分割可能である。分割された人格一つ一つを「分人」と呼ぶ。分人は全て本当の自分である。といったところでしょうか。
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平野啓一郎氏の紹介です
1975年、愛知県生まれ。小説家。京都大学法学部卒。1999年、在学中に文芸誌『新潮』に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。以後、2002年発表の大長編『葬送』をはじめ、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。〔後略〕(本紙より引用)

↓本紙の構成です。
まえがき
第1章 「本当の自分」はどこにあるか
第2章 分人とは何か
第3章 自分と他者を見つめ直す
第4章 愛すること・死ぬこと
第5章 分断を超えて

以下に各章の内容を要約していきます。

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第1章 「本当の自分」はどこにあるか
著者は中学、高校と友人に恵まれて過ごしたが、教室に対して違和感、孤独感、耐え難さを感じていた。そんな折、小説にのめり込み、文学を愛し、美に憧れている自分こそが本当で、学校での自分は周囲に合わせて仮面をかぶっているだけだと思うようになる。
この、キャラや仮面という言葉に象徴される、「本当の自分」と「ウソの自分」を対比させる人間理解のモデルは分かりやすいが誤りだと著者は考えている。

著者はフランス留学中には、語学学校のクラスメートであるスイス人達に接する時と、学校から帰って日本人の友人達と接する時では、明るさなどの点で全く対照的な状態であった(前者とはうまく馴染めず陰気な状態で日本人とは陽気に話していた)が、これは意識的にキャラを演じていたのではなく、周囲との関係から自然とそうなったのだと振り返る。また、高校時代の友人と大学時代の友人両方と同時に会った時の例などから、私たちはそもそもそんなに意識的にキャラを演じ分けるということをしないのではないか、と考察する。

すなわち著者の「個人」に対比される「分人」の考え方では、人間は対人関係ごとに色んな自分(分人)を持っていて、それらはキャラや仮面ではなく、全て「本当の自分」だということなのである。これはネットの中では別人だったり、趣味の話しは、それが通じる共通の趣味を持った人にだけする場合も、それぞれの場面でのその人を「分人」と捉えてその人の分人のひとつだと考えていくということである。

「本当の自分」は幻想であり、「いつでもどこでも変わらない自分」などを実践すれば面倒くさい人間だとされコミュニケーションは不可能。人間は「(分割不可能な)個人individual」
ではなく、そこから否定の接頭辞を取った「(分割可能な)dividual」である。

教育で「個性」の尊重が目標として掲げられたが、個性の尊重の意味しているものはつまり、自分の特徴にマッチした職業に就くことだった。しかし、職業というものは社会の必要に応じて分化したものであるから、人間の個性の数だけあるわけではない。それゆえ、団塊ジュニア以降の世代は、若い頃にアイデンティティクライシスを経験することになった。その流れの中で現れた特徴的な現象が「ひきこもり」と「自分探しの旅」である。この両者は一見正反対のものに思えるが、どちらも「ただ一つの本当の自分」幻想に突き動かされているという点で性質が同じである。

著者はアイデンティティクライシスを乗り越える試みの中で、小説家になり、さらにこの問題について考え、小説の中で表現していくこととなる。様々な小説を書いていくにつれて考えが進み、最新の段階では、「本当の私」という考えを完全に捨てるに至った。

この章のまとめ
一人の人間は「分けられない individual」存在ではなく、複数に「分けられる dividual」存在である。だからこそ、たった一つの「本当の自分」、首尾一貫した、「ブレない」本来の自己などというものは存在しない。

第2章 分人とは何か
「個人 individual」という概念は、西洋に独特のもので、一神教であるキリスト教と論理学に由来を持つ。この概念を輸入した後の日本人は、概念の理解に苦しんだ。現代でも実際には複数の「分人」が生じているにも関わらず、一人一票などの「個人」単位で扱われる場面が多く、また「本当の自分」幻想もあるため、私たちは現実の在り方と想定とのギャップに苦しんでいる。

この苦しさを解決するためには「分人」全てを本当の自分と考える。分人は分数のイメージである。分母の数は対人関係の数によって異なるので人によって違う。そして重要な人間関係においては分子が大きくなるイメージ。それぞれの分人は反復的なコミュニケーションの中で形成されてくる。
この分人が中心のないネットーワークを形成している。これを生きていく上での足場と考えるのである。

分人の形成は以下のようなステップを辿る。

ステップ1 社会的な分人 
当たり障りのない話をする、「不特定多数の人とコミュニケーション可能な、汎用性の高い分人」 地域差がある。

ステップ2 グループ向けの分人
学校や会社、サークルといった特定のグループ(カテゴリー)に向けた分人

ステップ3 特定の相手に向けた分人
全ての関係がこの段階まで至るわけではない。ごく短時間でここまで至る場合もあれば、長く知り合いでいてもここまで至らない場合もある。

このステップを進めるには人によってペースの違いがあるので、どちらかが一方的に早いスピードで段階を進めようとすると、コミュニケーションに失敗する。親密になるということは、相互に配慮しつつ、無理なく分人をカスタマイズしていくことである。

個性というのは、分人の構成比率と考えることができる。例えば中学時代にヤンキーになる場合を考えると、ヤンキー仲間向けの分人を生きるうちに教室空間や教師に向かい合う時もその分人を生きることとなり、コミュニケーションがうまくいかず、それだけ「ヤンキー仲間と過ごす時間が増え、分人が強化されるというサイクルに入ってしまう。
いじめられている子は、放課後に別の人間関係や趣味の活動を持って、別の分人を持てた場合、その分人の重要度を自分の中で高めれば、相対的にいじめられている自分の分人の重要度を下げることができる。この際、いじめられている自分は本当の自分でなくて、放課後の自分が本当の自分だと考えるのではなく、いじめられている自分も含めて本当の自分であるが、比率として、放課後の自分を足がかりにする、価値の序列を付けるという感覚を持つのがよい。

第3章 自分と他者を見つめ直す

分人は反復的なコミュニケーションによる相互関係によって生じるものであるから、自分の分人の性質の責任は他者にもあり、逆もまた真である。自分はAさんが好きでBさんが嫌いである、さらにAさんとBさんの仲が良い場合、自分としては二人の仲がいいのは面白くないだろうが、BさんのAさんに対する分人は、自分には口出しできないのであって、BさんはAさんにとっては良い人なのかぐらいに考えておくしかない。コミュニケーションにおいて、自分が影響を与えられるのは、自分に対する相手の分人だけである。個人としての相手全体に影響を与えることはできない。

分人のバランスが大切であって、ある一つの分人が不調になったとしても、関係を断つなどしてその分人の相対的な重要度を落とし、他の分人をあ足場にして「あっちがだめならこっち」という考えでいるのが良い。間違って「自分を全部消してしまいたい」などと考えると取り返しがつかない。

このような文脈で考えると、「自分探しの旅」というのは「新しい分人を作る旅」とも考えられるのであって、案外分人化に対する鋭い直感が働いているかもしれない。環境を変えるというのは、単純だが、特効薬的な効き目を発揮することがある。

人間は複数の分人を生きているからこそ精神の安定を保てる。いつも同じ自分でいなければならないのは非常なストレスであり、だからこそ閉鎖空間はストレスなのである。ひきこもりは嫌な分人を消滅させることができるが、(コミュニケーション全体を遮断するため)新たな分人も発生せず、過去の分人を生きるしかなく、変わることはますます難しくなる。

しかし、われわれには「顔」が一つしかないため、顔を用いればやはり個人は特定される。これは分人化をおさえる抑止力となる(防犯カメラの例など)。

親との関係は分人化過程においても重要であり、子どもは親との分人を最初に持ち、初期はそれをベースに他の人との間の分人を増やしていくこととなる。親と教師とに見せる様子が全く違っていたとしたら、それは分人化の過程を正常に進んでいることなのである。

自分自身のことは自分がよく知っているので、自分のことを好きになるのは実は難しい、しかし「誰々の前に居る時の自分(分人)は好き」となら考えられるかもしれず、これは自分を肯定するための足がかりになる。他者を経由した自己愛と揶揄されそうであるが、自己を肯定するために他者とのコミュニケーションを必要とするという逆説的な点において単なる自己愛とは区別されるものである。

第4章 愛すること・死ぬこと
分人という概念を導入して恋愛を考えると、従来の「1対1の個人同士が互いに恋をし、愛する」というものではなく、愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態と考えられる。これは前章で触れた他者を経由した自己肯定の状態である。人間が誰かと一緒にいたい、他の誰かとは一緒にいたくないと考えるのは、その人のことが好きか嫌いかというよりも、その人と一緒に居る時の自分の分人が好きか嫌いかという、ことが大きい。
分人という概念が示唆するところでは、誰かと愛し合っている、恋している分人を複数抱え込むことは容易にあり得る。文学は個人であるはずの人間が恋愛する複数の分人を抱えてしまっている(いわゆる浮気や不倫)葛藤を書き続けている。嫉妬感情をどうするのか?人は人間全体同士として愛し合えないのか?という点について著者自身が小説で書いた時にはやや保守的な結論にいきついた。
嫉妬感情についても分人のバランス・比率という観点から整理できる「私と仕事どっちが大事なの?」とある人が問う時、これは比較対象がそろわない馬鹿げた質問なのではなく、自分向けの分人が不当に小さな重要度しか振り分けられていないことに対する糾弾なのである。パートナーには自分と似た分人の比率傾向を持った人を選んだ方が理想かもしれない。さらにストーカーとなると、今度は自分に対する分人の比率を強制的に大きくしようと異常な行動に出る人間である。この強引な分人の強要はされた方はもちろん不快であるし、した当人もおそらくは満たされない、全くの逆効果なものである。

愛する人を失った時の悲しみは、自分の中に大きなウェイトを占めていた、その人との分人をもう生きられない・更新の可能性が失われるところから来る。

著者自身は「故人だったらこう言っただろう」という話し方には長らく反発を覚えていたが、尊敬する大江健三郎との対談中にそのことを話題にしてから部分的に考えが変わった。個人と深いコミュニケーションがあった人の内部には、個人とのコミュニケーションで生まれた分人がまだ残っているのであり、その意味で死者も他人の分人を通じて生き続けると言える。

第5章 分断を超えて
人間には環境的要因と遺伝的要因がある。遺伝要因も分人化の過程に影響する。個性は常に新しい環境・人間関係の中で変化していくものであるから、見知らぬ他者の分人化の傾向からその人の生来の性質を決定することはでない。とんでもない性格の人だと思っても、その人の成育歴などを丹念に調べると理解できるものであったりする。そうすると犯罪の責任の半分はやはり社会の側にあるということになる。

個人(individual)は、他者との関係においては分割可能dividualである。だからこそ、個人自体は分けられず他者とは明瞭に分けられる独立した主体として義務や責任を帰属させられる。
分人(dividual)は、他者との関係においては、分割不可能 dividualである。

個人は人間を個々に分断する単位であり、個人主義はその思想である。分人は、人間を個々に分断させない単位であり、分人主義はその思想である。だから隣人の成功は喜び失敗には優しく手を差し伸べるべきである、どちらも自分自身がその結果に影響しているからである。

一人の人間の中の分人同士が相互に混ざり合うほうがいいのか、きっぱり分かれているほうがいいのか、という問題にたいして、著者はどちらもあり得ると考えている。

社会のコミュニティ同士の分断を乗り越えるために、私たちは、矛盾するような複数のコミュニティごとに分人を形成して、それら複数のコミュニティに参加すること(複数のコミュニティの多重参加)が大切である。そうすることによって対話の可能性も開かれる。
なぜなら、私たちの内部の分人同士には意識のレベルでも無意識のレベルでも対話の可能性があるからである。

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「感想」
短く言うと、コミュニケーションごとに異なる私、これをどう理解すればいいのか?と考えていく本です。僕が心理学教室で書いている修士論文のテーマに近いので参考に読んでみました。
著者は、従来の心理学用語ペルソナ、若しくは日本社会で90年代から用いられるキャラという用語を使わず、敢えて新語である「分人」という概念を導入して、新語の定義と導入の必然性を丁寧に紹介した後、友達関係、恋愛関係や死者との関係、さらに社会状況にそれを応用して分人的な読みなおしを実践して見せます。新しい人間関係の捉え方であり非常に興味深く読ませていただきました。
あえて少しだけ疑問を述べさせていただくと、用語の整理とそれに付随していじめ問題に対しての考えが異なったのでいくつか記しておきたいと思います。

心理学的に言えばペルソナとキャラも主体の関与度の観点から異なる概念であり、一様に分人と対比することは難しいと思うので、僕なりに整理してみたいと思います。
まずペルソナはCGユングによって提唱された概念で、主体が場面ごとに異なる性質を全面に押し出し、他の部分は後退するような状態を指します。これと対比される分人の性質として最も大きいのは「主体」を想定しないところでしょう。どちらも自分の性質の一部を表出するという点で共通ですが、「分人」の方は一つ一つを人格として認めています。一方ペルソナの方はそれらを包括する「自己(自我とは異なる)」概念が想定されているため、統合を見越した概念だといえそうです。
次にキャラに関してですが、キャラは必ずしも自分の中の性質の一つという訳ではなく、自分とは違う性質のキャラであっても場の要請によって演じる場合があるという点でペルソナと異なります。また複数のキャラを統括する上位の主体があるというよりも、主体が分割するようにキャラごとに主体があるような不連続性があり、解離性同一性障害における交代人格との構造の類似性も指摘されています。キャラと「分人」を比較した場合、こちらは確かに違いがありそうだと思います。キャラは「人格」に比較すると一面的で単純であり、変化や発達をしない概念なので、コミュニケーションによって変わって行く「分人」とは大きくことなるといえます。ただし、キャラと分人概念は一部で重なってしまっているとも思われました。自分の「キャラ」に不満足でも演じなければならないエピソードが一般的であることと、自分に気に入らない「分人」を生きなければいけないという話はかなり類似しており、分人も、本人が気に入るかどうかという観点から見ると、キャラ概念と重なる部分があり、気に入らない「分人」も本当の自分であると考えるのは、場からの圧力を軽視している感じもします。いじめられている子がその分人の重要度を下げればいい、と言われても「明日も学校でいじめられる」と考えただけで、重大な抑うつ感情を体験するはずですし、その体験が外傷性記憶となれば、教室にいない時間も捉われることになります。本書の処方箋はいじめられ体験の実感とはかけ離れていると言わざるをえないでしょう。その意味で、分人的に考えるならば、いじめというのは、ストーカーに構造的に類似していて、(いやがらせメールを送るまでもなく)いじめられる側のいじめる側に対する分人の比率を強制的に異様に大きくさせるという点が特異的かつ暴力的なのであり、放課後が充実すればオッケー的な考え方で簡単にその肥大化した分人の比率を下げられるのか素朴に疑問で同意しかねるところです。ストーカーがやって来ない時間帯が充実すればオッケーとは言えないのと同じことではないでしょうか。
しかし、いじめられている人に対して有効な援助というものは非常に難しく、教室外の関係を充実させることが精神衛生上良いほぼ唯一の手段という考え方には僕も賛成です。いじめの根絶自体はほとんど不可能だと思われるので、いじめられ関係だけに閉塞することを避けられるようにする・可能性を提示するという方向は本人にとってかなり嬉しいことだと思います。次のステップとして「いじめられたのも本当の自分だけど重要じゃない」と思考を停めてしまうのではなく、どこかの時点で、「なぜそのような関係に陥ったのか、自分の性質と関係があったのか、それとも、圧力に負けてそのような自分を演じてしまう弱さ、という自分の性質があったのか、いじめられた時の気持ちを今はどう考えて、それをどう自分の人生に位置づけなおすのか」ということを時間をかけて、考えるという手間が必要だと思います。

引用・参考文献 『私とは何か 「個人」から「分人」へ』 平野啓一郎
2012 講談社
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